「人新世の資本論」と宮本憲一と相乗り社会

斎藤幸平さんの話題の書「人新世の資本論」という奇抜なタイトルだが、これが大ヒットとは本当に嬉しい。読んでみると、爽快!の一言だろうか。

とはいえ、結構色んな人を一網打尽にしているので、腹立てている人も多いのかも。


たとえば、「成長と炭素排出のデカップリング」。いくつかの国や地域で経済成長しているのに、温室効果ガス排出量は減っている例がある、として、省エネや再エネを進めている良い例だ、と紹介されている。それを斎藤幸平さんは軽薄だ、とばかりに簡単に批判している。が、あまり根拠を言わないので、反論も出ている。

多分、言いたいのは、その限られた地域や国だけをみてデカップリングだ、などといっても、現代の生産体系や投資体系やはグローバリゼーションなので、その国内からの排出量だけを見ていたって意味ないでしょ、ということだろう。その国で使っている製品や原料であっても、域外や国外で作られているから、その地域からの温室効果ガス排出としてカウントする必要はない、としている統計マジックに過ぎないのではないか。
また、先進国は発展しつつある国に投資をして所得収支を得ていたりするのだから、その所得には他の国での排出量が含まれてしかるべきではないか。
大量に廃棄するセクションを地域内から切り離してデカップリングなど、詭弁である、これが斎藤幸平さんの主張だろうし、実際にそうであるケースが多いだろうから、実は鋭い指摘だ。オランダの誤謬という。

ではやはり、斎藤幸平いうところの「脱成長コミュニズム」しかないのだろうか。

実は、私の尊敬する宮本憲一さんは1980年代にすでに環境も維持可能な社会をうむには「マイナス成長が必要なのでは」と言っている。ラトゥーシュとかより前ではないだろうか。多く学ぶところがあるはずだ。とはいえ、では省エネや再エネの取り組みを否定できるかというかと、やり方次第だが、人類がこのまま居続けたいのならその方向しかないだろう。

脱成長コミュニズムか分からないが、宮本憲一さんの言葉で言えば「共同で生活する社会的/経済的「容器」を維持する政治経済のあり方」を探るということだ。社会的な共同生活条件、と言えるだろう。言葉が難しいから「脱成長コミュニズム」ほど流行らないのが残念だが、ようするに「シェア」がとことん進む、相乗り社会と言えるだろう。

相乗り社会」とは、「シェア」とは、一つのものを多くの人が使うということで、資源を最小限に、エネルギー消費を最小限に、しかし、「誰もが取り残されずに生活と欲望を享受できる」、そんな仕組みだ。「図書館」とか「公共交通」とか「学校」とかが分かりやすい例だろう。

再エネであろうが、省エネであろうが、あるいはITだろうが医療だろうが、とにかく「シェア」という考えが足りない未来への提案は詭弁で誤謬だと思う。

「相乗り社会」を目指そう。

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