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世界にはどんな問題があるのだろう?なぜ起きるのだろう?

ポランニーの三つの交換を反対にしてみる

 世界において、より多くの貨幣とより多くの権力とより多くのプライドを目指した争い、問題が頻発し、そして、止まらない。なぜか?
 単純に言って人間の知性と倫理性が低いからといえるが、実は、低くならざるを得ない、社会の構造がある。それは人間の世界での物質消費・廃棄・再生のために行われる「交換」に深く根ざした構造の問題のためである。

 この小論文では「交換」の形態を深く分析した上で、そこから現在の国民国家・資本主義が生まれ、その体制が「交換」に根ざしているから容易に変えられないことを示しつつ、「交換形態」の方向性を逆方向にすることで、がんじがらめの現在の体制を変革していけるのではないか、ということを提案する。説明しよう。

ポランニーの三つの交換

 経済人類学者のカール・ポランニーは「制度化された過程としての経済」という論文で、交換には3種類あると指摘している。
 人類は交換するときに、このうちの一つの形を取らないとどこか不満が残る本能があるようだ。それは根本的に他人からいただいたものに「同等物」「等価」を返さないと気が済まないという本能だ。

 もらいっぱなし、奪いっぱなしでいることは、個人の心情的に、あるいは、社会の統治上、許されないのだ。「妥当な呼応行為」「同等物の返還」「等価交換」が求められる。なお、自然界には同等物という考えはないので、交換はしない。ただあげるか、ただ奪うか、だけだ。
 さて、この人間たちが行う交換は次の3つのタイプに分けられる。

(1)贈り物をしたら返す、という交換。互酬制
(2)力づくで収奪もできる、ただ、収奪をし続けるのは困難なので、再分配も行う。中心への拠出=再分配。
(3)貨幣による市場交換。商品→貨幣

 (1)のもらったら返す、互酬制というのが一番の基本な交換形態になる。
 次に(2)「奪う」という力による収奪が起こるが、(1)の互酬制を元に、奪うだけでなくて、贈り物を返せ、と言い出す民が出てくる。それが、収奪→再分配→再度収奪→再分配、という不思議な交換が生まれる元になる。原型が共同体の長だ。この交換は本当に「同等物の返還」か危ういので、収奪する側は「同等」だと命がけで説得するのである。

 最後に共同体と共同体の間の交換が広がっていくと、複数の共同体間での交換を一元化して、そして慣習的に同じ交換を繰り返すのではなくて、その度に「同等」交換にしたいという「商人」が生まれる。この共同体間の交換を等価にする働きを持っているのが「貨幣」だ。「一般的等価交換物」の地位を占める。

貨幣による等価交換の危険性

 重要なことは、この貨幣を用いた市場交換は「地位」に基づかない格差を生み、社会不安を起こすことから、人類の長い歴史では強く抑制されてきたことだ。よってこの交換が全面に出るまで、人類は18世紀辺りからの西欧を待つしかなかった。そこでは伝統的な貴族封建領主の地位が崩れた。一方でプロテスタンティズムが個人の善を意識させ伝統の欺瞞さを批判した。一方ではイギリスやフランス絶対王政の統率が、伝統的な貴族封建領主を叩き力を弱くさせた。その権力の転換のなか、商人が土地を「商品」とすることを許した。

 人々と人々の互酬的な交換が、貨幣を通した市場においての交換に変化した。つまり、「商品」を通した関係のみを通して、人と人が関係し合うことが強く意識されるようになった。必要なものは「商品」として得ることが中心となった。日々の生活に使うもの、そして、土地や労働力、さらには貨幣までが金融資本による「商品」と化した。人類の歴史上、これは、ほとんど社会的に許されなかった事件だ。許されなかったのは、人と人の共同体、地位に基づく社会階層、そして人間と自然の間の代謝を根本的にぶっ壊し、社会不安、生活環境の完全な破壊につながる恐れがあったからだ。

 (3)の貨幣による市場交換においては、貨幣と商品と永遠に交換し続けていくことができる。これを価値転換という。
 さらに、まず貨幣を用意して、生産財や原料などと交換して、それを商品として市場で販売して、また貨幣を得ることもできる。
 うまくいけば、最初に用意する貨幣より、最後に得る貨幣の方が多くなることがあり、これを単独の商人の視点から見ると「利潤」といい、社会全体で見るときは「剰余価値」という。(マルクス「資本論」)

  より多くの貨幣を求めようという資本の動き。

 資本の動きとは、便利な「貨幣」を介した交換を市場で行うときに、必然的に起こる「二つの交換」のために起きる。ひとつは「買う交換」である。もう一つは「売る交換」である。交換の一方は「貨幣」なのだから、これは必然だ。ここで、貨幣を「M(money)」とし、代わりに交換されるもの・サービスなどをまとめて商品「C(Commodity)」とすると、この二つの交換はこう表される。

 「買う交換」 M→C (貨幣で商品を買う)
 「売る交換」 C→M (商品を売って貨幣を得る)

 あとで詳しく触れるが、資本の動きというのは、この二つの交換の間で価値転換が起き、買った時より高価で売れるのではないか、という現象を追求したものといえる。
 つなげるとこういう交換になる。

 「買う交換—(価値転換)—売る交換」 M-C-M’(M<M’)

 そう、資本の動きとはこの「M-C-M’」なのだ。そこではいつも二回の交換が対になっている。

 「この儲け主義」と批判する前に、じつは貨幣を用いるとこの交換をせざるを得なくなるという現実をよくみよう。資本の制度と言うのは、「資本主義」というように選べるような「主義主張」では無くて、貨幣を用いる交換を続けるために出現してこざるを得ない「必然の制度」なのである。「資本主義め!」という倫理的であるかのような批判をする前に、その「必然」をよく見つめてみよう。それは「共産主義」とか「社会主義」とか選べるものとは違う。

 人間は生きていくために、様々なものやサービスが必要だ。ものやサービスをどう得るか?もし人間同士で交換しないとしたら、すべてを自給自足することになる。しかし、人間は自給自足をやめ、交換を通した市場の発展の道を進む「システム」を正しい道と思い込んでしまった。

 もちろん、交換をしても「市場」で価格競争をしないで行うこともできる。公的な「正当な交換量」に応じて慣習的に物やサービスを交換するのだ。これが互酬制に主に根差した交換である。社会的地位に応じて得るものが違う場合も多いが、災害などに応じて再分配もされた。市場における交換で格差が広がるのを、本来人類は「非道徳的」と強く非難していた歴史が長かった。先に述べたように、市場での貨幣交換を進めさせたのは、貴族階級、つまり大地主の「地位」を疑問に思わせる宗教運動があったからとも言われている。

 もっとも交換しやすい方法として交換できると納得する「等価」を分かりやすく明示できるものとして「貨幣」というものを生み出した。
 この「貨幣」がある限り、先に表した「買う」と「売る」の二種類の交換が起きる。そして人間は買い続けることだけを行うことはできない(貨幣が無くなる)し、また売り続けることだけもできない(売る商品が無くなる)。様々な商品を流通させるために、M-C-Mという交換をせざるを得ないのだ。

 資本の交換の本質的な不思議

ところが、この交換(M-C-M)をよくみると、不思議なことが二つ分かる。

 ひとつは交換の最初に出てくるM(貨幣)がどこから出てくるのか、分からないことだ。これはその前の交換から得たのでない限り、借金をして得た貨幣ということになる。

 もうひとつ不思議なことは、これは二つの交換が対になっているのだけれど、その二つの交換で後の交換(C-M)は違う場所でより遅い時間で行わざるを得ないことだ。実は一回めの交換(M-C)のときには、二回めの交換(C-M)が最初に思った通りに成立するかどうか分からないのだ。だから一回めの交換をあくまでリスクを読みながら、借金をするという命がけで行って、その後、なんとか売れるように必死で頑張るしかないのだ。つまり、資本の問題とは時間の問題なのだ。

 これは事業を行う時のことを考えれば分かる。何かの事業をしようと思う。そのための資金を借りる/借金する。その負担を負いながら、いざ事業を開始してみたら、ちっとも売れないかもしれない。こんなリスクを負うのだから、命がけで必死にたくさん売って、より価値転換して高付加価値にして、「儲けよう」と思わざるを得ないだろう。

 つまりM-C-Mが市場交換の必然なら、最後に儲けようというM-C-M’の資本の動きを目指さざるを得ないのだ。それは主観的に「なに主義」を取ろうとも必然的に起きてしまう資本の制度なのであって、そこから逃れることは困難だ。
 だからM'を求める資本の欲動は止まらない。

 似たようなことは国家という制度や「互酬」という制度にもいえる。それは「交換」という人間の現実に根ざしているからこそ、簡単に取り除くことはできない。

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3つの交換を変えないで、変える方法は? 

 現在では、(3)の「貨幣を伴う市場交換」が全面的に出て「資本主義」となった。(2)の収奪=再分配は、(1)互酬制と結びついて国民の互酬制(共助)に根差した、独占的国家=国民国家が生まれた。
 資本主義と国民国家はこのような人間の根源的な交換形態に根差しているので、容易に取り除いたり、革命程度で変えることもできない。

 では、どうするか?

 この3つの交換から離れずに考えると、この交換の形を変えられないか?という考察に至る。
 そう、この交換を全く、逆にできないか?と。

(3)資本: M-C-M’  (貨幣ー商品ーもっと貨幣:Money-Commodity-Money'、ドイツ語ではG-W-G')
 一度目の交換の時(貨幣で原料など購入:投資)には、二度目の交換(市場で消費者に販売)が成り立つのか分からないので、資本の投資は命がけの跳躍。
 命がけなので絶対に成功して剰余価値を成立させねばならない。資本の利潤最大化への欲動。(販売量、コスト削減双方で。さらに独占利潤を目指す)
 ついでに既得権益ができたら、決して離したくない欲動。

(2)国家:収奪ー再分配
 収奪したら、それで他の収奪国家と覇権抗争が続けられる。しかし、国内を統治できないと軍事力も蓄えられない。
 よって、仕方なく、最低限の再分配。

 資本は命がけの跳躍を避けるために、国家の再分配と結託できる。
 国家が収奪した税金を元手に補助事業、公共事業を受け続ければ、確実に販売できると安心できる。

 資本と国家がタッグを組む。
 かくして、資本主義・国民国家はどうやっても変えられない社会の仕組みとなる。

 では、どうするか?

 どっちも反対から考えたらどうだろう。
 もし、最初の「買う交換」を行うときに、その後に何がどのくらい売れるか、つまり、「売る交換」が大体予見できていたら、それほどリスクも無く、無理して無駄なものまで作って売りつける、ということを行わなくてもすむのではないか?一回目の交換(M-C)のときに二回目の交換(C-M')が見えていることだ。ならばM'を求め無駄な生産、販売を行う必要も無い。

 ・投資の前に、ニーズが分かっている。
 ・収奪の前に、再分配から考える。

 はじめにニーズが分かれば、安心して投資もできるし、そのニーズに応えた社会的なインフラ投資やサービスを計画できれば、そのために個々人の財を一度中央に拠出するのも嫌悪感を持たないのではないだろうか。聞くところによると、北欧諸国では、個人主義が強いながら税金は社会の未来への投資と考えていて一般的に拒否感がないという。

 結局、「ニーズとそれを成立される再分配」をどう探り当て、実行に動かせるかにかかっているのではないか。「ニーズ」とは政治経済学の言葉で言えば「使用価値」だ。そして特に、地域社会で共同して「シェア」する使用価値があるものを社会的共同使用価値、「社会的共同生活条件」と呼ぶ。(宮本憲一)

 その視点から繋がってくるものとして、この論文を通して変革のヒントとしたい言葉は、例えば、「社会的共同生活条件」「コモンズ-イズム」「SDGs→SS(維持可能な社会)」「一般意志2.0」「デンマークのオープンデータイノベーションはすごいのか?」「よいくらし」といったものだ。

 もう一方では、しかし、そんなの誰ができるの?誰がやるの?行動する主体はどう生まれてくるの?過去の社会主義とどう違うの?という疑問も生まれる。
 そこから例えば、「エチカ」「ケイパビリティ」「中動態から能動態へ」「エミール教育」「成績をつけない、その代わり社会課題発見力と協調力と解決への実行力を尊ぶデンマークの教育はすごいのか?」「しっかりしよう」という言葉が意味を持ってくる。

 ただ、実際にこのような「よいくらし」「しっかりしよう」を目指す人々の働きかけは、それこそ紆余曲折の永続的な活動であろう。ただ、3つの交換を反対にする、という視点が一本入ると、なにか、将来への目標・希望がつくれるような気がしませんか?

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一般意志は社会的共同使用価値を導き出すのか?

 しかし、人は前もって何が将来「必要」になるか、分かるのか?ジャン=ジャック・ルソーのいう「一般意志」は何か?なんて、本当に分かりえるのか?(「社会契約論」)

 例えば、最近のデータとAIの活用でどのくらいまで将来ニーズ予測ができるのか。単にマシン頼りでなく、それ以上にどのくらい人間社会が人権や環境などの持続可能性・普遍的な価値観を共有できるかも、将来の必要の予測と計画立てに不可欠である。

 普遍的な理想を実現するために(暖かい心)、逆に極めて冷静にデータを収集し分析できるか(冷たい頭)、が重要になってくるだろう。

 「必要」なものが「必要」なだけ提供されるなら、それは交換される。

 なにが「自然と人間の生」のために「必要」か?

 その空間的な場である「地域」の中での市民の討議と取組みが「地域ニーズ」という形となって、産業と結びあっていく過程、その中にこそヒントがあるのではないか?その討議と取り組みで全てのニーズではないにせよ、大きな「社会的」ニーズが明らかになってきたとしたら、より確実な交換が行えるのではないか?

 そのとき、「セカイノカラクリ」を変化させていこうという「セカイノシュウリ」が始まるのだ。

 そして、ポランニーの3種の交換の帰結は「国民=国家=資本制」ではなく、そこから「内発的な地域」を目指し、「地域コミュニティー=各種の地域自治体=協同制の地域経済の内発的発展」のトライアングルに移行していく(トランジション)ことになるだろう。

 しかし、人間は実践を通してしか学べない。実践を呼びかけたい。

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 3つの交換のもう一つ、(1)贈り物の交換=互酬制を残していた。

 これは、何か贈られる、そうすると、同等のものを返さなくてはいけない、という義務感が生まれる。
 これを贈り物を交互にいつまでもし続ける「互酬制」と主に文化人類学で呼ばれている。

 この発展形が「国民主義」であり、資本・国家 と結びつくことによって、国民国家・資本主義の、3つの交換に基づいた現代世界の構造に行き着く、というのが柄谷行人の議論である。「世界史の構造」が詳しい。

  では、この互酬制を反対にすると、、、

「贈り物ー贈り物」

 の反対は、

「贈り物ー贈り物」。。。

 同じじゃん?

 となる。あら。
 ただ、よく考えると、過去に贈り物を受けて、将来に贈り物をするという時間の関係になっている。

 この時間軸を逆にできないだろうか。

 つまり、過去に受けた贈り物を返す、という順番でなく、 未来の人からすでに贈り物を受けていて、現代の(過去の)人は、未来の人に贈り物を返さなければいけない立場にある、という交換である。
 このような互酬制は人間の交換の本能を満足させるであろうか?

 実は、このような考え方はすでに人類史にあるのだ。

 「地球は、未来の子孫から借りているもの」

 ネイティブアメリカンのこの文化が、互酬制の転換による持続可能な社会を示していると思う。


(続く → 「トランスコミック論文(1)自然と人間の交換 トランスコミック序論

(全体構成は、こちらへ → 「トランスコミック完全版」目次

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