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地震、オリンピック、本屋の閉店、丸投げタスク

 地震のあと、職場でライブ配信されていた気象庁の「南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会の検討結果について」の記者会見を(科研費の書類を書きながら)見ていた。今、探したらYoutube にも上がっている。

 この記者会見の質疑応答がなんともかんとも。今回の地震が「南海トラフ地震だ」と言わせたい読売新聞、そして「次に、いつ、どこで巨大地震が起こるか」を科学者になんとか言わせたいNHK記者。NHK記者は二回も同じ事聞いたしな。言葉を選ばないで言えばより「センセーショナルな記事」にするための言質が欲しいのが透けて見える。科学とは全然違う方向に固執した質問で辟易とした。

 辟易としたのは、私が科学者の側だからだろうな、と思って自宅に戻ったら、長男が夜のニュースで流れた記者会見の映像をみながら「この会見、テレビでみたけど酷かったね」と言っていた。ちょっと驚いて「なんで?」と聞く。

「南海トラフって、そんなに言わせたい?」
「会見している先生が、呆れ気味になってた」

 おぉ、そうですか。長男からもそう見えるのか。いや、私の息子だから同じ感性だけかも知れないが。改めてYoutubeで見直してみると、いい質問(日経新聞とか)もあったので、やはり質疑応答は大事だなぁと思う。自分の書こうと思っている(既に描いている)記事(ストーリー)の言質を取ろうという目的の発言は見てられないな。出てきた情報に対して、より詳細な内容を聞く、もしくは難解な部分をかみ砕いて貰うとか、個人的にはそういう質疑応答は聞いていて楽しい。

 でも、こうやって質疑応答が可視化されるイイ時代になったなと改めて思う。事前に自分で描いたストーリーに沿って記事を書きたい系の記者さんは大変だろうけれども。言質をとるためだけに科学者を利用する、科学の世界の理を理解出来ないくせに自分の正義だけで科学を利用する、というのは時代遅れで通じないので、さっさと廃業すればいいんじゃないかな。居なくなって構わない。


 今更だけれども、オリンピックの開会式は面白かったなと思う。色々な意見はあるのはわかるし、言いたいこともわかるのだけれども、とにかくセーヌ川をボートで入場するというのは、かっこよかったなと思う。

 そりゃ、ゲスだなんだとかいいますが、沈没船ジョークだと我々日本人は「皆さん、飛び込みましたよ」で飛び込む国民性で、フランス人は「決して飛びこまないで下さい」で飛び込む国民性なのだ。エスプリを効かせまくった高尚な(?)フレンチジョークは「我々にはわからん!」ということじゃないかな。

 某エラそうな誰かさんが、「あれはないよなー、酷かったなー」とか、それこそエラそうに高説していたので、ちょっと辟易とした。こうやってヒトの「楽しい」や「好き」を頭ごなしに馬鹿にする。飲み会でそこにいないヒトを馬鹿にして酒の肴にするような人だしな。下劣さが年をとってどんどん酷くなっていく。周りの悪いところばかり探すような老害ジジイになってしまったら、早く引退するしかないな、と心の中で誓う。人のふり見て我がふり直せ、である。そういう指摘をしてくれる人が周りにいるかどうかだろう。結局は裸の王様なのだ。その責任の一端は私にもあるのだろう。

 閉会式も楽しみだな。某エラそうな誰かさんとは面白さを共有できるとは思わないけれど。


 自宅からド田舎県の中心部に行く途中の駅前から、5分ほど歩いた場所にあった本屋が閉店した。その本屋は良く利用していた本屋で、店内に手書きのポップがたくさんあるお店だった。文学系の新刊で話題になった本や、店員さんオススメの本には、大抵ポップが貼られていた。それが好きで、時々寄っていた。ポップに惹かれて積ん読が増えた。

 息子の図鑑もここで何冊か買ったし、この3月には職場の若い方のお子さんの入学祝いも、そこで購入した。とても丁寧にラッピングをしてくれる。ラッピングの包装紙もリボンも4〜5種類ぐらいから選べる。昔ながらの本屋で、個人的には頑張って応援しているつもりだった。うちの奥様もその本屋が好きだった。新しい小説との出会いを提供してくれる本屋だった。

 SNSも積極的に展開していて、新刊のオススメを挙げていた。解説がとても良かった。中の人は、いわゆる「本の虫」で、本の虫からの視点で、個人的オススメをさらっと定期的に出していた。時々、興味をもって本を買いにいき、そうして私の部屋に積ん読が増えた。たぶん、ポップを書いている人と、SNSの中の人は同一人物だろうなと思っていた。

 しかし、ある時に寄ったら「○月○日で閉店します」との張り紙が貼ってあった。慌てて妻にLINEを送る。後日に改めて夫婦でお店を訪れて、本を何冊か買った。いや、今更買ったって遅いのはわかる。でも買わざるを得ない。この気持ちはどう表現して良いのかわからないが、とにかく「推し」というか「愛する癒やしの空間」がひとつ消えるような、なんとも表現の難しい状況だ。閉店前に、本を買うことで、その空間の最後を噛みしめているというか、ある意味、儀式なんだと思う。

 閉店の告知をみると、概ね私の年齢と同じくらいの期間にわたって、ここで本屋をやっていたようだ。SNSで検索すると、閉店の瞬間には多くの客が集まったようだ。ポップ書きとSNSの中の人と話してみたかった(もちろん、そんなのはキモイので、声などかけられないが)。

 本当にお疲れ様、と伝えたい。そして今まで本当にありがとう。


 ボスから丸投げされた論文、なんとか2本ともアクセプトまでもっていくことが出来た。結局、ボスはなにもしなかった。ちゃんと読んでるかすら怪しい。というか、たぶん、もうついてこれてないんだろうな。プライドは高いし、なんとか賞だかなにかもらっちゃって、額に入れて飾っているぐらいの世間的にはエラい人ですから、自分が○○年も論文を書いてないなんて認めたくないんだろう。

 さて、科研だ。科研だ。今回の論文達をネタに組み込んで科研をだそう。頑張るしかない。歯を食いしばって、泥水を啜ってでも前に進むしかない。夏の戦いを頑張って乗り切るしかないのだ。

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