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『ひばりの朝』ヤマシタトモコ ”ぶりっ子”という勝手な解釈と、そこから来る加虐心に震える

2011年~2013年祥伝社「FEEL YOUNG」に掲載されていた作品です。全2巻。
この作品、私は読む度に「正解」を探してしまい息苦しさを覚えます。でも最後のひばりの行動で希望が見える、、、かな。
もしかしたら、読む時の年齢やそれまでの経験で捉え方が大きく変わるかも知れません。

手島日波里(ひばり)14歳。中2。
物語は彼女を取り巻く大人・同級生らが、彼女の存在をどのように捉え、どう解釈・反応し、行動していくのかを描いていきます。
ひばり自身の感情や考えは、直接的には殆ど描かれていません。
読む側は、周りの人物のひばりに対する反応を軸に
ひばりの表情・セリフ・行動から、その人物像を察するようになっています。

キモチワルイ。

初見の時、一番始めに込み上げてきた感情です。
ひばりは、登場する男性達から見ると
「白ムチ系のエッロい」
「ヤってねーわけねー」
「そういうのわかってて利用するんですなあ。女ですよ。」で、
登場する女性達から見ると
「女くさい」
「『おんなのこ』」
「調子にのってる」。
男性側の偏った目線に怒りを感じてキモチワルイし
女性側の攻撃性に満ちた反応もキモチワルイ。

でも、途中で気づくんです。
この人達って、”自分”なんじゃないか?と。
”自分”を見せられているようで、キモチワルイんじゃないかと思うんです。

登場人物たちが、ひばりに対する評価を都合よくひけらかす度に
「あなたにも、こういう反応した経験ありましたよね?」と
作者から突き付けられているような、ばつの悪さ。
特に女性登場人物のひばりに対する反応は、自分のコンプレックスを浮き上がらせてくるようで脳内で吐きますw
読みながら無意識に「彼らと自分は違う!」と、必死にあがいている事に気付いてしまいます。

ぶりっ子

作中には一切出てきませんが「ぶりっ子」という言葉があります。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ぶりっ子(ぶりっこ)とは、主に女性が異性の前で無知なふりをして甘えている、非力なふりをしている、わざとらしい女らしさ(愛らしさ、可愛らしさ)のアピールをしている(「猫を被る」と同義)と解釈した人間が、これに対し否定的な見解を示す際に使われる言葉。

いろいろ調べてみたのですが、Wikiの解説が好きですね。
「~と解釈した人間が、これに対し否定的な見解を示す際に使われる言葉。」
そうそう!事実ぶりっ子かどうかは重要じゃない。
ぶりっ子だと解釈するか否か。
まじで、本人不在。周り次第。ゲロー(脳内嘔吐)。

ひばりが実際にどんな人間であれ、登場人物達は
ひばりを彼らの中での価値基準で勝手に解釈します。
女性登場人物達は「ぶりっ子」のように判定し
否定的な反応を取り続けます。
恐らく読者も、途中まではひばりを「ぶりっ子」判定するのではないでしょうか。そして感じると思います(多分)。「この子なら、しょうがない」。

恐ろしい。
この加虐心はどこから来るのか。
各々の価値基準だけで、判定と反応がどんどん進んでいく。
でもやっぱりこの加虐心には明確に覚えがある。
女を武器に使うなんて「悪い」から?
和を乱していて「良くない」から?
・・・全部を持っていかれそうで「怖い」から?
それって本当なのだろうか。

辻先生の存在と『ひばりの朝』というタイトル

読者がひばりに対する情緒の波に飲まれていく中、
その流れを「一瞬」止めてくれるのが辻先生という登場人物です。
この人物のおかげで、ひばりに対して一旦ニュートラルな目線を持つことができます。この人物はきっと、アホな私のような読者のために居るんだと思いますw

あと、好きです!タイトル!
最終話を読んで、その余韻のまま本を閉じたときに
表紙に印刷された『ひばりの朝』というタイトル。救われます。
素晴らしいタイトルだと思います。

冒頭で「読む時の年齢やそれまでの経験で捉え方が大きく変わるかも」
と言いましたが、実際2012年に新刊でこの本を買って読んだときとは、自分の中で捉え方に変化がありました。
2012年に読んだときは、自分に近いと思って理解していた登場人物を
2020年では哀れに感じたり。
胸糞悪いヤツだと思っていた登場人物を、結構全身で攻めるヤツだったんだなと思い直したり。

おばあちゃんになった時、どう感じるか。
全て許せるようになっているのだろうか。
そんなところも楽しみにとっておこうと思う作品です。


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