コーヒーの機嫌は一期一会
「起源」ではなく、「機嫌」である。決して変換ミスではない。
私がコーヒーを飲む上で一番楽しいと感じる瞬間は、最初のひとくちだと思っている。
喫茶店の淹れたてのコーヒーでも、
自分で淹れたインスタントのコーヒーでも、
自販機で買った缶コーヒーでも、
不思議なことに、どんなに同じ店、同じ商品であっても、口に含んだ瞬間に広がる味わいは「常に同じ味」ということがないのである。
「缶コーヒーと私」でも話した通り、
私は学生時代、様々なブランド、商品で缶コーヒー巡りをするため
あちこち自販機を練り歩いていたことがある。その頃の話をもう少しだけ。
ちょうど新商品や季節限定の登場が落ち着いた頃のことである。
私は、いつもと同じように食後のコーヒーを探していた。
その日は、いつもと同じように大学で午前の講義を受けていたのだが、
科目の都合上、普段お昼の時間に利用している校舎からやや離れたところの場所にあった。
さすがにいつもの場所まで戻るのも時間が勿体ないと感じた私は、その中のフリースペースで昼食を済ませ、近場にあった小さな自販機で缶コーヒーを買い済ますことにした。
当時の私は「缶コーヒーは昨日買ったものとは違うものを選ぶ」というマイルールを設けていたのだが、生憎そこにあった自販機が少なかったことと、たまたま機能飲んだものと同じメーカーの自販機だった。
これは仕方ないかと諦め、昨日買ったものと同じものを買って飲んだ。
するとである。
(昨日と同じものを買ったはずなのに、今日はやけに甘く感じる)
全く同じ商品のはずなのに、どうしてなのか。
その場で頭の上にはてなが湧きおこった。
よくよく考えてみればなんてことない当然の話だが、この地球上に存在するすべての食べ物、すなわち動植物というのはおよそ有機物である。有機物である以上、酸化と腐食という自然の摂理にあらがうことはできない。
ゆえにスーパーに並ぶ食べ物・調味料のほとんどに賞味期限、消費期限が
書かれているわけである。
その中でもコーヒーというのは、たとえわずかな「酸化」であっても、味わいや風味が変化するとてもデリケートな飲み物であると言える。
科学的に言えば極めて状態が不安定な物体、液体なわけである。
たとえ酸化を抑えた缶コーヒーであっても例外ではなく、時間の経過による変化はわずかな空気や缶の金属と作用してコーヒーの味を変えてしまうのである。これは一般的には「劣化」としての意味合いが強いだろうか。
それゆえコーヒーを生業とする人たちはこうしたコーヒーの微々たる変化に注視している。そのお店の味を守るため、一番いい味で提供するため、最高の状態にこだわりを磨いている。
ではこれら一連の変化を、単なる「劣化」として悪であると評するかと言えば、私は必ずしもそうとは思わない。
むしろバリスタの腕や豆そのものに対して、常に同じ味、風味を要求すること自体、無謀な注文である。
コーヒーを飲む前の食べ合わせ
時間の経過
その日の気温や湿度
ブレンドの配合や火加減
豆の育ち具合
些細な変化でもコーヒーの味わいはまるで違ってくる
私はむしろ、それが面白いと思う。
ドリップコーヒーの淹れたてに広がるコクのある苦みが、少し冷ましてみると、どことなく酸っぱさを感じるのも1度で2度美味いものだと感じたりする。
こうした味の変化に対して、その瞬間自分がどう感じているかに意識をむける。コーヒーを通じて自分ともちょっとだけ向き合ったりするのも好きだ。
最初のひとくちに意識を傾ける、「コーヒーへのご機嫌伺いのような瞬間」もまた、コーヒーを愛する人たちの憩いの時間ではないだろうか。
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