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つれづれぼやき|わたしたちは「好き」をどこかにぶつけたがっている

自分のやるべきこと、使命(キリッっっ)を見つけた話

わたしは、その場の光景を頭に止めておくくせがある。これを記録しなくては!っていうジャーナリスト的な(キリィっっ)視点の自分がいる。それが時にすごくしんどかった。
えっと、今この瞬間を頭に記録しなきゃ、あー新しい時間が迫ってくる、えっとここも記録して、
いやいや! そんなことはどうでもいいから今をそのまま楽しまなきゃ、いや楽しむだけじゃもったいない…という堂々巡り的な。


この癖をやめられたらいいのでは? 「文章にしないと」って強迫観念にとらわれなければいいのでは? って思ってた。でも違うわ。これは明確に、私のやるべきことなんじゃないかな。

見聞きしたものを、どうしてもテキストにして残したいって、自然にそう思ってる。伝聞する人とか話のうまい人よりも、よりうまく自分の考えを文章に乗せていける人に尊敬する。だから作家になりたかった。芥川賞作家とか、直木賞作家とか言われてみたくなる(笑)。

他の人はそんなにそこに憧れないのに、なんで私はそれがかっこいいと思うのか。
私はざっくりと「もじをかく」っていうやるべきことがあって、そのなかで認められたかったんだ。
だから、仕事してても「将来の夢は小説家ですし~」とか冗談めかして言って自分に逃げ道をつくっていたんだ。

動画インタビューとかでコミュ障なんだろうなというのがひしひしと伝わってくる作家たちを見るとものすごく安心するし、共感する。あーこの人、対面したらすぐに仲良くなれるだろうなあって思う。

ぶちぎまっててこんなに文章を書きたくなってPCに向かう人なんてなかなかいないのでは!?あー文章打ってるとき、きもちえー!自分かっけぇー!って思う人あんまりいないんじゃないかな? 最後に数えてみたら1万字くらいになっていた。

文字にしていくと、とても安心する。人に相談するときも、モヤモヤをすべて書き出してみると安心する。そのメモを見て校正しているだけで心が落ち着いてくる。現に、メンタルぐっしゃぐしゃで呼吸の仕方を忘れそうになっていたのに、文字を打ちたいと思い立ってPCを開いてメモに書き出してみたらものすごく楽になった。

古代には文字を使う動物なんていなかったはずなのに、なんで人間は文字を持ったんだろう。
やっぱり人間は記録に残したがる遺伝子があったのかな。
どこかに飛んでいっちゃいそうだった意識が、文字につなぎとめられる。

「コタツ記事なんかだけじゃなくて、私というライターに文章を頼みたいと思われるようなテキストを書くぞ!」って志せばいいんだ。
でも今時、SEOライターばかりが求められて、心の中のつれづれを書くのなんて流行らないよね。

DJあおいさんとかトイアンナさんが、テキストで相談に乗ってくれていてめちゃくちゃ盛り上がっていた時代が大好きだった。いや、まだDJあおいさんのページとかは存続はしているんだろうけど、当時のような熱さというか、熱、エネルギーを周囲から感じない。当時はリアルの友達も「これ超共感する」とかいってDJあおいさんやトイアンナさんの記事のリンクを送りあっていた。

今はみんな、ブログとかテキストじゃなくて、TikTokみたいな動画に伝聞として乗せていく時代になったんだろうな。私はテキストにしがみついているのは、もう過去の産物、遺産なのかな。
いやいや!そんなことはない
文字は今後、印刷はされなくなるかもしれないけれど、作家の紡いだ言葉を、読みのプロがうまく読んでくれてオーディブルになるんだ。

最近ずっと、コタツ記事ばっかり書いてたりSEO対策の記事だったり
文章を書くのにも、他社と比較するってことばっかりをしなきゃいけなくなっていた。
そこじゃなかったんだーーーー
ひとりよがりかもしれないけれど、これからもnoteを書いていくべきで
noteが開催している小さな賞みたいなやつにも積極的に書いていくべきだ!わかった!
私なりの小さな範囲で、自分の心が満たされるように文を書いていけばいいんだろう。

「わかった」って表現を、私は少し小バカにしている。わかっちゃったけど、「わかった」ていうのって🌈あるあるだよねって。でもついつい、「ワカッタ!」と言いたくなる。
「わかり方」は、上下ではなく、広さの問題。視野の広い狭い的な。
私の、安全地帯への戻り方がわかっちゃった。テキストにすることなんだ。文字を書くのとかスマホのタップだと間に合わないし、指の感触が気持ち悪いから、こうしてキーボードを叩くのがいい。今あるiPadと連携できるキーボードをまた買いなおして、携帯できるようにしておこうかな? そしたら出先とか、自然の中でわかったゾーンに入って不安になったときに、テキストにして安心できるよね。
でも、このキーボードの打ちやすさも重要な気がする。iPad用のミニのやつで満足するのか疑問視。

ネトフリの瞑想動画なんかに頼らなくても、私にはこうしてとりとめもなく出てくる考えを即文字にできるツールさえあれば大丈夫。これが私の心の支えになる。
こんなことが自分の心の支えになるなんてまったく知らなかった!!!
二泊三日のレイヴとかも、体力的に、精神力的に不可能だと思ってたけど、毎日日記をキーボードを打って書いたらものすごくセラピーになる気がする。これだったんだなーーーわかることができてよかった!!!!!
絵じゃないんだよね。絵は人にわかってもらう時の、変換させたツールで、やっぱり自分の思いをストレートに伝えられるのはテキストなんだよな。

ペンネームを変えたい話

そういえばペンネームもそろそろちゃんと考えたいと思ってて、Kindleに出した漫画の著者名を「取り外しクリトリス」にしてて、それって大丈夫なの? と思うから、下ネタじゃない名前にしたいんだよな。前は「がんぎ まり」っていう名前を使ったこともあったんだけど、あまりにありふれた名前なんだよなー! 界隈の「山田花子」みたいな。

私はアカウント名も「buchigimari」だし、「淵木まり」とかがいいんじゃないかな。ちょっと一瞬すぐには読めない漢字を最初に置いて、ひと息置く、すぐに入りこめない名前っていうのも自分らしい気がする。

「縁木」か「渕木」か、そもそも「木」なのか。
木はいれていていいんじゃないかな。なんか、一文字目の複雑怪奇さを、二文字目のさらっとした「木」が受け止めてくれる気がするんだよね。
「淵木まり」
「縁木まり」
「渕木まり」
どれがいいかなぁー。
ていうか「ぶちぎ まり」ってひらがなでもいいのでは!?トイアンナさんがカタカナでわかりやすくしたように。

でも、「ブチギマリ」だと他にたくさん使われていて検索ワード的に弱くなっちゃいそう。それなら平仮名で「ぶちぎまり」かなー。
「ぶちぎまり」かー
やっぱ、誰でも親しみやすい名前じゃなくて
一瞬、ちゃんとした名前の著者かと思いきや、読み方はえーっと…ぶちぎまり!?あ、そういうこと!?? ってなる仕掛けを作りたいんだけどな。

恒例、プラダを着た悪魔タイム

はいここで!プラダを着た悪魔タイムでーーーーす!(再生)


あああーーーなるほどわかったーーーー!
今と昔の世代の違い!!!
昔は「自分が若手に怒らないと、監督責任を問われて自分が責められるから厳しく言う」っていうシステムだったんだ。だけど、今は個人主義が日本でも進んで、新人のミスは先輩じゃなくてその新人自身のミス、みたいになったから、新人は自分で責任とりますし、うざいお局さん言ってこないでください、みたいになってるんじゃないかな。そのミスの責任の取り方さえも、個人にゆだねられているんじゃないかな。
よく中年が「あいさつとかしてこないと助けてやらないぞ」ってキモい脅しのように言っているのに(最近そんなツイートがバズっていた)若者がそれに乗らないのは、「あーそうですが自分のミスですし、責任とれなかったらやめるだけでーす」と根底に思ってるからなのか?
それはどうなん! って日本じゃなりそうだけど、その考え方が世界のスタンダードな気がする、良し悪しは置いといて。

あーーープラダを着た悪魔ってぜんぶいちいち行動がコミカルでおもしろーーーーい!
最近、こうしてアンドレアのようになにかのために必死になることってなかったよなー。やっぱ若いときはあった。本業の仕事をしながら、毎週複数本のアダルト記事連載に追われていたとき。ライブレポートを提出するとき。「ライター」として認めもらうための下地づくりは確かに頑張った。すごく大量の地道な作業だった。でもできたのは、文を書いて、読んでもらうのが好きだったからだ。だから、この下積み努力を他の人に無責任に課すことなんてできない。
でも、必死になにかに帆走するっていいなぁなんか。外から見てると応援したくなって、気持ちよくなるね。私はこれから中年になっていくこの過程でも、なにか自分に負荷を与えて、それを頑張ってる自分を見て、応援して気持ちよくなっていいのでは!? そんなときの、語学学習だよねー!!

わたしたちは「好き」をどこかにぶつけたがっている話


職場に、人としてすっごく好きな同性の先輩がいる。

もっと仲良くなりたいんだけどな。それは彼女のただの才能で、「変な人にも好かれちゃう」ってやつで、私からの熱すぎる好意は迷惑かもしれないな。だから他の人と同じくらいの熱量で静かにラブコールを送ろう。好意を出しすぎないように気を付けよう!

メジャーなものを大好きと言えるのって気持ちいいんだろうなー。TWICEの大ファンと公言できるのって、気持ちよくてラクで楽しいんだろうなー。
身近な人に、豪速球で好き! を投げつけると恋人や家族でないと迷惑なのに、芸能人とかには好きをファンレターとか推し活とかにして投げつけられるのってありがたいし、最高だよなー。好きの気持ちを惜しげなくぶつける先がある、それがアイドル、その仕組みがすごい。

たぬかなが好き!!!!!
思いをたくさん言葉に乗せられているところがかっこいい。自分には絶対に到底できないことだから

私の悪いとこ

私の悪いところは、自分はこれでできた!!だからあなたもやってみて!!!と自分メソッドを押し付けるところにあるな。老害ともなればみんなそうなってしまうのかもしれないけど…
やっぱり、どんなにうまくいくからって、自分メソッドを相手がすぐに受け入れられて理解して納得して実行するかはわからないんだし、相手が欲したときに押し付けがましくなくそっと差し出すくらいのかんじになりたいなー。

自分の中の差別意識にはっきり気づいた。
外国語の、誰でも参加できる講座を受講しているとき、大学生や院生が参加しているのは「これから世界で羽ばたく未来ある若者だから勉強する意味がある」と思ってて、中年以上の参加者は「余生の暇つぶしだろう」くらいに思ってた。
でも、未来あると思っていた私に羽ばたく未来はなかったし、総じて若者たちに未来があるとは限らないし、はじめから「余生の暇つぶし」くらいに継続していれば、肩ひじ張らずに続けていればよかったんじゃないかなと思えてくる。

あーー私って歪んだ考えを無意識に周りに散らしてて、それを不快に思われて一線置かれてるところもあったんだろうなー。自分から飛び込んで行っても、徹底的に避けられるみたいなことがあったもん。すみません。
もっと軽やかに人に好かれるようにこなしてみたいな。「いい奴」がいいってことだよね結局は。わたしはシンプルに「やな奴」だったんだなって思った。

トリとめもない考え

いやーやっぱ「幸せ」な話って妬まれて得がないから表に出てこないんだよな、きっと。幸せな人の9割は、自分が幸せであることを隠していると思う。

手に入れてないようにみえて、人は手に入れているし、知らない間に手放しているし、そういうことなのかな。

私は、何事でも全体像が見えているほうが安心する。PCは2画面じゃなくてひとつの画面で小さくまとまっているほうが安心する。すべてがひとつの枠のなかにあることに安心する。だから、ものを整理するときもたくさん箱や引き出しをつくりたくない。底の深いケースにばーんと放り投げて収納できるのがいい。

ものすごく感覚、耳がとぎすまされてしまって、上の階の音がクリアに聞える。くぐもって恐ろしい。でもこの聴こえているのは、ただのテレビの音なんだろうな。上の階でも、自分の階と同じように、当たり前にTVをつけて、生活を営んでいる。音に怯えることはなにもない。

インクルーシブ教育って必要??? なんで世界はその流れになってるの?? これ理解することが、ひとつなにか疑問の解決の道になる気がする。住み分けは必要だと思ってた。適材適所、適所じゃないとやっぱりひずみが生まれると思ってたけど…

気持ちがざわついたときは、自分の書き殴った文章を読み返すと心が落ち着く。安心はしないけど、とりあえず落ち着く。

眠剤いれて今日はおしまい。おやすみなさい。

ありがとう!ウサギがあなたの靴をなめるよ