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「がんばろう 日本!国民協議会」第17回埼玉読者会(R3.6月)


これは、「がんばろう 日本!国民協議会(http://www.ganbarou-nippon.ne.jp/)の機関紙、「日本再生」の読者が毎月行っている読者会のうち、埼玉の会の報告です。

「今回のテーマ」
① 社会運動と結びつく選挙とは
② 情報の”共有”と”民主化”のちがい
③ 東アジアに共通する人権問題とは 

【SUMMARY】
「人を選ぶ基準」で最も大切な視点は何でしょうか。東京オリンピックの開催までに起こった様々な責任者の辞任の多くは「人権」に対する認識の浅さが起こしたものでした。しかしこれは彼らだけの問題ではなく、こうした振る舞いを許してきた私たち自身の問題でもあるのです。

連続した辞任劇がはらむ“人権”の軽視

2021年7月に始まった東京五輪。開催については様々な議論が行われてきましたが、新型コロナウィルス感染症を含め、世間で「呪われている」と言われても仕方ないほど、関係者の辞任や降板が続いたことはまだ記憶に新しいものです。初期の新国立競技場建設計画の白紙撤回や東京五輪エンブレムデザインの盗用問題など、様々な理由で当初の予定が変更になるという事体が続きました。なかでも強調したいのは、演出の総合統括を務めていたクリエーティブディレクターによる、女性の容姿を侮辱するような演出案を出したことから辞任した問題、開会式の作曲担当者が、過去に雑誌のインタビューで明かしたいじめ加害に対する批判を受けて辞任した問題、公式文化プログラムに出演を予定していた絵本作家が過去のいじめの告白を理由に出演を辞退した問題です。(こうして挙げてみると、なんと多いことでしょう!)これらにはすべて「人権」が軽視されたという共通点があります。辞任に追い込まれて当然ではありますが、ここで問題なのは、原因の多くがその場での発言などではなく、たとえば雑誌のインタビューや自伝など、過去の情報を掘り起こしての指摘であるということです。つまり、発表された当時はさほど騒ぎにならなかったのに、センセーショナルな形で明るみに出された結果、いわゆる炎上がおこり、その声の大きさに屈して辞任という形になったということです。これは、本人たちの意識だけではなく、私たち自身もまた人権を尊重してこなかったことの表れではないではないでしょうか。いじめを受けた当事者が後になって告白をするということはありますが、それ以上にいじめや差別を行った人間がまるで武勇伝のように自身の行為を語ることを許容する社会。これが今まで私たちが生きてきた社会なのです。
しかし 現在、その経緯がどうであれ、事実を知った人たちが「NO」を突きつける動きが生まれ、たとえ開会式の直前であっても、その声にあらがうことが出来ない社会へと変化しつつあることが明確になりました。社会的な知名度や作品の影響力から見れば、今回辞任した人たちはオリンピックの開会式の企画に適する能力を持っていたのでしょう。しかし、そうした才能ではない視点で評価をされたとき、近代オリンピックの父であるクーベルタンが唱えたオリンピズム(スポーツを通して心身を向上させ、文化・国籍などさまざまな違いを乗り越え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって、平和でよりよい世界の実現に貢献すること)に反するという結論であったということになるのです。

人権民主主義は、私たち一人一人が問われるもの

私たちが「人を選ぶ」基準は様々ですが、オリンピックに限らず、社会を動かす様々な人事において、いままでとは明らかに違う視点を加える必要があることは明白です。それが「人権」、つまり私たちの「いのち」をどうとらえているかということです。例えば企業における経営者と従業員。学校における教員と児童・生徒。力関係がはっきりしているように見える状態でも、両者の間にお互いのいのちを尊重する関係が築けるかどうか、そういう相手を選ぶことが弱い立場から出来るかどうかという観点から働き方や不登校などの問題を考えると、また違う形の答えが出てくるのではないかと思います。
政治家を選ぶ基準も同様です。今年は多くの選挙が行われますが、候補者が「行ってきたこと」や「未来のビジョン」の中に、どれだけ「いのちを守る」視点が入っているかを判断の基準にすること。私たちのいのち(人権)が守られる社会をつくることが出来る人材を選ぶことが、今まで社会を席巻していた価値観や構造からの脱却につながるのです。

「多数派」という驕り

社会には様々な差別や偏見が渦巻いています。マイノリティと呼ばれる立場だけでなく、「普通」を自称する多数派の人たちであっても、簡単なきっかけで攻撃の対象になり得ます。多数である自分は大丈夫という驕りが「自分がおこなったいじめの事実を堂々と公にする」という事実を「スルー」させる行為を起こします。誰でもマイノリティの部分は持っていて、それがいつ可視化されるか、されないかの違いだけであると思えば、社会の多くの問題は他人事ではなくなります。
「誰かの人権が守られていない社会は、実は誰も人間扱いされていない社会である(駒井知会弁護士)」。東京オリンピックの開会までの出来事は、いのち、人権を守ることの重要性を、「責任者と呼ばれた人たちの辞任」という形で私たちに伝えてくれたのではないでしょうか。

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