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私たちの心と社会に潜む偏見と差別意識について

 私は20代後半の一般男性である。何をもって”一般”とするか、また何をもって”男性”なのかという話は一旦横に置いておく。


 私の周りの友人・同僚には同世代の女性が多くおり、そうした知り合いとの会話の中ではしばしば婚約や結婚、出産が話題にのぼる。


 InstagramやTwitter、Facebookなどで知り合いのそういった類の報告が目に入り、「あの人結婚したらしいね」や「あそこの夫婦、女の子産まれはったみたい!」のような会話が自然と出てくる。

 そうした話題の延長として「やっぱり、20代のうちに一人産んだ方がいいみたい」や「女性には身体のリミットがあるから……」といった発言がよく知り合い女性の口から語られる。


 本当にそうなのだろうか、といつも思う。時々その疑問をぶつけてみる。返ってくる言葉は「障害をもって生まれてくることは可哀想」「障害を持って生まれてくる子を持った親は気の毒だ」という偏見(バイアス)にものすごく引っ張られているように感じることが多い(彼女らがそう言ったわけではないので私がそう感じてしまったというだけの話なのかもしれないけれど)。


 無論、「健康な子どもを産みたい」という思いは親になろうとする男女にとって当たり前の考えだと思う。しかしながら「障害を持つ」とはどういうことなのか、転じて「障害がある」とはどういう状態なのかを改めて考えてみたい。

 そして、差別・偏見について我々はどのように向き合うべきなのか思考を巡らしたい。

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 今月に入ってからずっと同じ本を読み続けていて、先日ようやくその一冊を読み終えることができた。

 この本がどういう本なのか軽く説明すると、先天的に脳性マヒを患っている故・横塚晃一氏が脳性マヒ者の当事者団体「青い芝の会」でどのような活動を行なってきたのか、講演や機関紙で何を語ってきたのかということが克明に記されている。


 『母よ!殺すな』というセンセーショナルな題名は横浜市で起こった障害児殺害事件に端を発して付けられている。


 事件の詳細は産経新聞などで記事になっているので気になる人は読んでもらえればと思うが、我が子を殺めた母親に対する減刑を求める嘆願運動が地元を中心に広がっていった。


 「障害児を持った母親が可哀想、殺してしまっても致し方ない」という考えが社会通念として罷り通っていた時代において、その時代の風潮に一石を投じたのが横塚氏であり、青い芝の会である。


 なぜ彼女(子殺しの母)が殺意をもったのだろうか。この殺意こそがこの問題を論ずる場合の全ての起点とならなければならない。彼女も述べているとおり『この子は治らない。こんな姿で生きているよりも死んだほうが幸せなのだ』と思ったという。治るか治らないか、働けるか否かによって決めようとする、この人間に対する価値観が問題なのである。この働かざる者人に非ずという価値観によって、障害者は本来あってはならない存在とされ、日夜抑圧され続けている。
 障害者の親兄弟は障害者とともにこの価値観を持って迫ってくる社会の圧力に立ち向かわなければならない。にもかかわらずこの母親は抑圧者に加担し、刃を幼い我が子に向けたのである。我々とこの問題を話し合った福祉関係者の中にもまた新聞社に寄せられた寄稿にも『可哀想なお母さんを罰するべきではない。君たちのやっていることはお母さんを罪に突き落とすことだ。母親に同情しなくてもよいのか』などの意見があったが、これらは全くこの”殺意の起点”を忘れた感情論であり、我々障害者に対する偏見と差別意識の現れと言わなければなるまい。これが差別意識だと言うことはピンとこないかもしれないが、それはこの差別意識が現代社会においてあまりにも常識化しているからである。
 − 横塚晃一著『母よ!殺すな』より引用


 氏は誠に残念ながら42歳という若さでこの世を去ってしまったが、彼の意志を色濃く引き継いでいる青い芝の会は今尚活動を続けており、以下の行動要綱に基づいて障害者差別と戦い続けている。


一、我らは自らが脳性マヒ者であることを自覚する。
一、我らは強烈な自己主張を行う。
一、我らは愛と正義を否定する。
一、我らは優生思想を基にした健全者文明を否定する。

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 50年前の日本における人々の差別意識に対して当事者目線で訴え続けた横塚氏ならびに青い芝の会の活動成果は、今の障害者支援活動の根幹を成している一方で、彼が訴えてきた内容は半世紀経った現代において尚、根深く残っているように感じる。

 前述の本を読んでいる最中、某メンタリストの生活保護受給者やホームレスの人々に対する差別発言・ヘイトクライムが大きなニュースとなった。


 彼の思想はいわゆる優生思想に繋がりかねず、「働けない者の命を国は保証すべきでない」というトンデモ理論を支持する内容となっている。


 この理論は青い芝の会の理念と真っ向から対立するものであり、その本を読んでいた私としては、どうしてそのような発言に至ったのかが気になってしまい彼の放送をここ連日追い続けている。

 あまり彼の炎上商法に乗りたくないので多くを話すことは避けたいが、彼のYoutube Liveのチャット欄には

「何も間違ったことは言っていない」

「正論なのになんで炎上するの?w」

といったコメントも寄せられており、彼個人だけの問題ではない、物凄くドス黒い闇が日本社会全体に今なお根付いているように感じた。


 そうした発言をスルーしてしまうことはそうした思想をのさばらせてしまうことに他ならず、徹底的に糾弾しなければ、第二の相模原障害者施設殺傷事件、ホームレス殺害事件を生みかねないことを我々は自覚せねばならない。

 また、彼は過去にも「僕LGBTQの人に一切偏見ないんですよ。」と前置いた上で、LGBTQとして集まり活動をしている人をバカ呼ばわりし、新興宗教みたいだと言い放っていたようである。

 セクシャルマイノリティが云々とか差別が云々とか騒いでいるのを見ると何したいんだろうなって思っちゃいます。だって多様性を認めろって言ってるのに自分たちの一番の多様性である個性ってものを認められてないんですよ。だからこれがね、ダセーなって思っちゃうんです。




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 少し話が横道に逸れるが私は高校時代、韓国にルーツを持つ友人の前で嫌韓発言をしてしまったことがある。


 当時は竹島や慰安婦の問題が連日取り沙汰されており、また日韓W杯やWBCでの韓国選手の態度なども相まって反韓感情が強くあった。


 私個人がネットに親和性が高かったこともあり、いわゆるネトウヨ的思想に無意識のうちに染まってしまっていたのだと思う。


 彼には本当に申し訳なかった。この場を借りて心からお詫び申し上げたいが、この謝罪も一つの自己満に過ぎないと思う。


 過去の発言は取り消すことができない。

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 障害者差別はもとより、ホームレスや生活保護受給者、LGBTQ、そして特定の国や民族に対する差別は全て根っこのところで繋がっているように思う。


 多くは無理解や想像力の欠如、さらに言えば「その対象に自分の姿を見られるか」「自分が差別を受ける側になる可能性に想像力が働くか」によると考える。


 普通、子供が殺された場合その子供に同情が集まるのが常である。それはその殺された子供の中に自分を見るから、つまり自分が殺されたら大変だからなのである。しかし今回私が会った多くの人の中で、殺された重症児をかわいそうだと言った人は一人もいなかった。ここで思うのだが、これを一口に障害者(児)に対する差別と言ってよいものかどうか、そう簡単には片付けられないものがあるように思う。これを説明するのに私は適当な言葉を知らないが、差別意識というような生やさしいもので片付けられない何かを感じたのである。今回の事件が不起訴処分または無罪になるか、起訴されて有罪になるかは、司法関係者をはじめ一般社会人が、重症児を自分とは別の生物と見るか、自分の仲間である人間とみるか(その中に自分を見つけるのか)の分かれ目である。障害者を別の生物と見立てて行う行政が真の福祉政策となるはずがなく、従って加害者である母親を執行猶予付でよいから、とにかく有罪にすることが真の障害者福祉の出発点となるようにおもう。
 以上述べた如き我々の立場を主張するのは技術的に非常に難しい。意見書にも書いた如く母親を憎む気持ちはないし、まして重罪にしろというのではない。母親の苦労も私なりにわかり、かわいそうに思う。しかし我々の立場を主張する以上、この心の葛藤を乗り越えて、「無罪にするな」と叫ばなければならないのである。
 − 横塚晃一著『母よ!殺すな』より引用


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 思うに、「あの人とこの人(私)は違う」という差別意識は私たち全員にあるという前提にまず立つべきなのではなかろうか。


 「〇〇への偏見は無いよ」という詭弁を捨て、自分や社会に刷り込まれてしまっているバイアスにまずは自覚的になる必要があるように思う。

 そもそも差別か否かはその時代の要請によって変化するもので、昭和の時代には許されていたとんねるず演じる「保毛尾田保毛男」というキャラが今ではNGとなったように、例えば犯罪心理学などの分野で使われていた「サイコパス」と呼ばれる特性や行動も解明されて、具体的な診断名が付く未来もあり得る。


 差別や障害という概念は社会の中にこそ存在し、その人個人個人に依拠するものではない。


 しかしながらその概念を作り出しているのは私たち一人一人なのである。差別は社会の中にあるが差別意識は個人個人にある。障害は社会の中にこそあるが、障害による困りごとは個人個人に発生する。

 ダイバーシティ社会はそうした個々人の差別意識を発言や行動に顕在化させないことで実現に一歩近づくのだと思う。


 障害もまた、その人個人に依るものと考えるのではなく、社会で取り組むべき包括的課題として捉え直し、自分ごととして声を上げることで解消につながるのだと信じたい。

 語彙力がなくチープなまとめとなってしまうが、結局は私たちの意識次第で社会は変容するのであり、差別を生み出しているのは私たちの責任でもあると気づかなければならない。


 某Youtuberや彼を支援する人々の発言も、個人の問題として片付けるのでは結局同じ穴のムジナである。


 これを契機として、私たちの生きる社会と、それを構成する私たち個人個人の心にある偏見・差別意識を改めて問い直したい。

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