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思慮深さは仇となるのか

僕は思慮深い人間だ。
僕はこれまで3年間社会人をやってきたが、その中で得た気付きの1つとして、自分は思慮深く、石橋を叩きながら渡る人間なのだなと感じている。

その理由の1つとしてこのnoteがある。

1つの物事を単純に捉えるのではなく、「なぜそうなのか?」「例えるなら何だろう?」と1つの物事を多角的にじっくりと捉えていくことが楽しいし、充実感を感じられる。

noteを通して自分の考えを言語化し、1つの文章として作り上げることはかなり楽しい。色んな言い回しや、例えをもちいて、こうやって文章に書き起こすことはある種のクリエイティブだと思う。

そういう意味で言うと、僕はとっさに適切な判断をすることが苦手だ。タイトな判断を求められたとしても、確認をしたいし、自分なりの「これで大丈夫だ」という確信がないと「これで合ってるのか?」と自分の中の調律が合わなくなる。

速さと正確さが求められるなら、正確さの方が重要度は高い。速さだけを追求しても、粗が残れば速さの意味がない。

頭ではそういう風に考えていても、本番だと焦る自分が全面に出てきて、粗が残って苦汁を飲むことが何度もある。なんとも悩ましい。

この悩ましい自分の特性を、どうにか適応させれないだろうか。実際、技術面ではある程度の熟練度は感じている。問題はマインドや考え方の部分だ。

確認を怠らない。独走状態で周りと齟齬を起こさない。これが大事になってくるのだろう。

こうして文字に起こしてみると、なんとも生真面目な性格に見えてきてウケる。
そんな中、今日0秒思考を再読していたら、ハッとされた文章があった。

ほとんど似たようなテーマでメモを5〜10ページ、あるいは20ページほど書いていくうちに、もうそのテーマについては考え尽くした感じ、書き尽くした感じがしてくる。
その時点で、もう検討すべき、メモに書くべき課題ではなくなっている。
頭が十二分に整理され、明確なイメージをつかめるようになった状態だ。

同じテーマ、似たようなテーマを描き続けても、それは無駄なことではない。同じようなテーマでも、書く前と書いた後では、そのテーマに対する考えはより深くなっているからだ。同じテーマを書き続けて、ネタ切れを感じてきたら、それは自分の中で考えが定着した証拠であり、次に起こすべき行動も明瞭化された状態なのだなと。

昨日と今日の自分は違うんだなと、はっきりと実感できないぐらいの変化を日々重ねているのかもしれない。

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