最も“野獣”から遠い野獣派――アルベール・マルケ
決して派手ではないけれど、見た人を立ち止まらせる絵があります。一見、何の変哲もない風景画に見えますが、景色の本質をとらえた上手さがあるからです。
その画家の名前はアルベール・マルケ。
美術の教科書では、フォーヴィスム(野獣主義)の画家として紹介されていますが、原色の激しさとは対極にある、優しい絵を描く画家です。
日本ではあまり知名度が高くないため、カタカナでマルケと書くと、同時代のドイツの画家マルクやマッケと混同されることもあります。
マルケとはどのような画家だったのか、この機会にぜひ知ってください。
作家としても知られるマルケの妻、マルセル・マルケは夫について以下のように書いています。
「マルケと親しく接したことのある人なら誰でも知っていることだが、彼はいつも会っていた人たちに対してでさえ内気で寡黙な人であった。古い友人であるマチスは、マルケの死んだ翌日、彼を理解するのは結構難しいことだと私に打ち明けてくれた。」
この言葉からわかるように、マルケはまるでその絵のように大人しい人でした。そしてルオーと同じく、マチスの親しい友人でもありました。
アルベール・マルケが生まれたのは1875年で、マチスより6年、ルオーより4年遅くなります。生誕の地は、ワインで有名なボルドーの田舎町でしたが、15歳の時に母とともにパリに出てきます。なぜならば、生まれつき足と目が悪く、学校の成績も悪かったマルケには田舎での生活は難しいだろうと母親が判断したからです。
マルケの母は行動派でした、絵を描くことが好きだった息子にデザインを学ばせようと、田舎の不動産を売り払って、パリに服飾材料店を買います。彼女はその店で働きながら、マルケを国立装飾美術学校に通わせました。そこでマルケが出会ったのが、遅くに美術を志した6歳年長のマチスです。根拠のない自信に満ちた社交的なマチスと、物静かなマルケはなぜか馬が合いました。
マチスは、本当は国立美術学校に入りかったのですが、試験に落ちたために入学が叶いませんでした。そこでマルケと同じ国立装飾美術学校に籍を置きつつ、国立美術学校にも聴講生として通っていました。その教室で優等生として、モロー先生にいつも褒められていたのがルオーです。
マチスはマルケを絵の道に誘い、1894年、マルケは国立美術学校に入学します。劣等生だったマチスが試験に受かったのはさらに翌年の1895年のことでした。ここでマルケとマチスは、ルオーの他にマンギャンやカモワンといった、後にフォーヴィスムの運動に加わる仲間と出会います。
しかし、生徒の個性を尊重する良い師であったモローは1898年に亡くなり、後を継いで絵画教室の先生となったコルモンとは気が合わず、マルケもマチスも学校を止めてしまいます。コルモンは早熟の天才として知られた画家で、その画塾にはゴッホやロートレックも通っていたのですが、先生としての評判はいま一つでした。
1903年、マルケはマチスやルオーらとともに、自分たちの美術展覧会サロン・ドートンヌを立ち上げます。そして1905年のサロン・ドートンヌにて、原色の激しい色使いと荒々しい筆触が特徴的な一群の絵が、批評家ヴォークセルによってフォーヴ(野獣)と評されたことから、マチスやマルケはフォーヴィスト(野獣派)と呼ばれるようになりました。
悪評とはいえ、話題になったことで彼らの画家としての名声は広がりました。そして確かに、当時のマチスやマルケの絵は派手でした。
おかげで1905年、マルケはワイン商のドリュエとスポンサー契約を結び、経済的な心配をすることなく絵を描くことができるようになります。その2年後の1907年、息子の成功を喜びながら、マルケの母は亡くなりました。
ちなみに、1906年にマルケが描いた「サン・タドレスの海岸」は、2008年のサザビーズ・オークションにて、約210万ドルで落札されました。これは、ルオーのオークション・レコードよりも高く、2018年現在もなおマルケ作品の最高落札価格となっています。
マルケの生活は充実していました。1908年、マルケはサン=ミシェル河岸のマチスのアトリエを譲り受け、そこに1931年まで住んで絵を描きます。1911年頃から、マルケは裸婦画を多く描くようになりますが、それはモデルのイヴォンヌとの関係抜きには語れません。イヴォンヌは長年マルケのパートナーでしたが、結婚までには至りませんでした。
マルケが結婚したのは1923年、47歳のときです。1920年、アルジェに旅行したマルケは、現地ガイドをしていたマルセルに出会って、愛を育んだのです。
旅好きなマルケは、マルセルとともに、チュニジア、モロッコ、イギリス、ノルウェー、ルーマニア、スウェーデン、オランダ、イタリア、スイスなどに長期滞在して絵を描きました。
1940年からは、第二次世界大戦を避けて、マルセルの故郷のアルジェリアで5年間暮しました。1945年、ようやくパリに戻れた夫妻でしたが、マルケの身体は病魔に蝕まれていました。
1947年1月、マルケは胆嚢の手術を受けます。お見舞いに来たマチスは「自分も腸の手術を受けてからは、看護人に囲まれて何とか生きている」とユーモアをまじえて語りましたが、マルケの気は晴れませんでした。
マチスが帰った後、マルケは妻にこう語りかけます。
「彼は世の中の人間に囲まれていてもつらくはないんだ。だけど、僕は普通とはまったく違う」
その言葉どおり、マルケは最後まで妻以外の看護を受けず、その年の6月に72 歳で永眠しました。
参考文献:1991年「マルケ展」図録(東京新聞)
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