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自然に馴染んでいくその環境はぬるま湯ではないですか?

順応性は適度に必要な要素だが、身を置く環境を何の疑いもなく当たり前の基準としてしまうのは思考停止を意味する、という話

先日とある団体の役割りを卒業した。よくある古い体質の組織であるがゆえ、かれこれ数十年、いやおそらく創設時から変わらない内部の構造が、いよいよ機能しなくなっている。

会員の減少はいたしかたないとして、高度成長期とあまり変わらない運営方法や活動方針は時代錯誤も通り越してもはやシーラカンスかといわんばかりに時代による変化を無視し続けている。

そうなってくると、限界をむかえた内部の歪みが会員のフラストレーションを最高潮に押し上げ、運営側とのヒリヒリした関係をより一層悪化させていくのである。

右肩下がりに会員が年々減っていく中で、今までのような活動を継続していくのは無理がある。しかもこの先5年以内にさらなる減少の波が押し寄せてくることがほぼ確実に決まっている中で、それでも解散せずに存続させるのであれば(私は解散も視野に入れることを個人的に推薦している)大きく形を変えることは必須である。

しかしながら、慣れとは恐ろしいものである。創設時には活気もあり、活動の方向性を定める意味でも意見のぶつかり合いなどの活発な議論もあっただろう。しかし、スタート時特有の調整時期がおわり、自分たちにとって都合よく作られたルールが浸透すると成熟期というぬるま湯に浸る時期が訪れる。

そして現在はいつまでも成熟期と思って浸かっていたぬるま湯が完全に常態化した衰退期であるにもかかわらず、いつまでも熟成される居心地の良さに誰もそのマズさに目を向けないのである。

先日、長男の入学式にともない、何十年かぶりにラッシュ時の交通機関に乗ったのだが、昔は私にとっても当たり前の光景であり、初日にしてゲンナリしていた長男であってもすぐに順応し、それが当たり前の日常となっていくのだろう。

良くも悪くも人は置かれた環境に順応していく。そこで送る日常や誰かが作った仕組みが自分にとって特別に害がなければそのまま体を馴染ませていく。その流れに身を任せてしまうのは、そこに疑問を持ち、考えるという行為が面倒だからだと思う。

セットされた日常を流れ作業的にこなしいくのは味気ないが、考えなくていい分楽なのだ。

考えたり、変わったりする余力なんて残ってない、という意見はよく耳にするが、スマホゲームやSNS、ネットフリックスなどに比べて圧倒的に優先度が低いだけという意識の違いかと思う。

誰だって居心地のいい場所に居座りたいし、適温なぬるま湯に浸っていたい。しかしそうやって考えることを放棄して後回しにしたツケは必ず何かしらの形で回ってくるのだと思う。

そのツケを自分で払うか、あとに残された人に払わせるのかはその人次第かと思うが、いずれにしても人生イージーモードとする裏側には必ずハードモードの側面があることを忘れてはいけない。

いい湯加減だな、と感じている環境にいるならばその湯加減の裏にあることも考えてみるといい。ゆでガエルになってからでは事態は遅い、水温の上昇は気がつかないうちにあなたの思考や行動力を奪っていく。

人間は放っておくと自然と楽な方に流れる習性があることを忘れない




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