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ここじゃない、これじゃない、なんか違う、自分の中の違和感を無視しない

今の立ち位置に気持ちよく立っているか。気持ちがピッタリとハマっているか、俯瞰してみよう、な話

どんな商売や立場においてもある程度の地点にゴールを設定している人も多いと思う。そのゴールがある種のモチベーションになり日々の役割をクリアする原動力になっているのではないだろうか。

ゴールを明確にイメージしている人もいれば、なんとなくぼんやりとゴールの景色やあるべき姿を想像している人もいるかと思う。そのゴールに到達するまでの道のりはそれぞれで、かかる時間も労力も千差万別だが、将来に何かしらの期待をもっているからこそひとつのゴールを設定した人がほとんどで、ゆっくり歩いて届く距離に設定している人は少ないはずだ。とりあえず今の環境で走ってみたい、というある種の向上心がその発想の素になっているからだ。

そして走りながら努力をする。数年単位で。

そこには自分しか語れない数々のドラマがあったかと思う。その一つ一つは振り返ると財産と言って相応しいほどの経験の積み重ねが走ってきた道のりに残ってきたと思う。

そうやってたどり着いた一つのゴール。今の率直な感想はいかがだろうか。達成した清々しい気持ち、乗り越えた努力の総量、自分を褒めてあげたいなどの感傷もわかるが、あえてもう一度聞く、率直な感想はいかがだろうか。

これ以上ない高揚感、見たい景色が見れた、と答えた方はこの先は読む必要はない。すぐに他の人が書いた記事に飛ぶことをお勧めする。

しかしながら、ここじゃない、これじゃない、なんか違う、と違和感を感じた人はいないだろうか。

今まで費やしてきた労力から『達成感を味わっていると思いたい』、『素晴らしい景色と思いたい』と無理に自分を『到達した人』に仕立て上げていないだろうか。頑張りを否定したくない気持ちから違和感に蓋をしてしまっていないだろうか。

走った末、辿り着いたゴールが想像と違っていた、ということは起こりうる。それは自身が成長したが故に、数年前に設定したゴールがすでに陳腐化されたこともあるし、そもそもそのゴールが世の中の尺度で評価されているものだったとしたら、自身には魅力を感じることができなくてもおかしくはない。

肝心なのはその違和感を素直に認め、次のゴールを再設定し、また走り出すということだ。数年の単位で走り切ったことは事実だ。走れた自分を認めてやろう。

そして脚力のついた自分の足で次のレースはより理想的な走り方を目標にすればいいだけのことである。

違和感はそのままにしておくと間違ったままエネルギーを消費し続けることになりかねないので、ゴール地点で素早く俯瞰して検証し、修正することが必要になってくる。

重要なのは自分の気持ちに嘘をつかない、ということだ。繰り返すうちにゴール設定のクオリティーも向上してくるだろう。いつかたどり着くゴールにはきっと違和感などはないはずだ。

あくまでも自分の価値軸で設定したゴールを目指そう。レース後のゴールではしっかりと俯瞰した検証と修正が必要である。

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