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芸術と斬り結ぶアンドロイド(鵜川龍史「時の器」解釈とレビュー)

本学園国語科の鵜川龍史教諭が第8回 日経「星新一賞」優秀賞を受賞しました。以下は、受賞作「時の器」に対する、高校1年の生徒による解釈とレビューになります。なお、受賞作は、下記のリンク先の作品集(無料)に収録されています。(編集部注)
「僕にも、描けるようになりますか」

 3年前に事故に巻き込まれ、現在は車いすに括り付けられて入院生活を送っている「私」。
 この作品の舞台では、障碍を持つ人々も表現に興じることが出来る。というのも、病院に導入されているアンドロイドに対し、患者は〈ハーネス〉によって感覚を同期させ、操作することが出来るのだ。ただ、AIは「オーナーが提示する表現のパターンを過去の作品データと照合し」「予定的な調和に導いている」に過ぎない。一方、「具象と抽象を幾重にも折り重ねることで、全く異質な表現に至る」「私」の絵画はその限界を超えているため、アンドロイドを通して「私」の絵を描かせることは不可能だと、「私」は考えていた。

 しかし、それから20年。「私」は「ラースを完全に道具として使いこなすことで」作品の制作に取り組んでいた。ラースのおかげで、「私」は「絵を描く喜びを取り戻」させてもらったのである。ところが、緩慢化が始まり、ラースと同期できなくなってしまった「私の時間」。ラースは「一人前の画家」への道を歩み始めることになる。

 この作品を通してなんとも印象深い言葉が、アンドロイド・ラースの口からこぼれる。

「僕にも、描けるようになりますか」

 おそらく、AIと言われるとイメージも曖昧で何かコンピューターに似たようなものを想像してしまうが、この作品中で登場するのは人型のアンドロイド。当然「人間の形をして同じ言葉で会話をしている」のであるから、「命を感じないでいられる」はずもない。そんなアンドロイドが「描けますか」などというのである。AIにプログラムを用意して絵を描かせるのとは違う。近年よく耳にする「AIに芸術表現は可能か」という議論を数次元上回るかのような、そんな言葉であったように感じる。

 また、本作を読んでいると芸術表現の本質について考えさせられる。本作の舞台では入院患者とアンドロイドは感覚を同期させることが可能だ。これは当然、私たちの常識を超えている。現実世界では人同士であれ人とアンドロイドであれ、それらの感覚を同期させることなど不可能だ。だから私たちはコミュニケーションをとっている。言語を通じて、あるいは芸術という形を使って、互いの意思疎通を図るのである。
 そう考えると、感覚の同期が可能となった入院患者とアンドロイドは、ある意味で一種の苦しみのようなものを押し付けられているような印象を受ける。その苦しみによる反動でか、「私」とラースは絵を描こうとする。「具象と抽象を幾重にも折り重ねる」、そんな絵を描こうとするのだ。感覚を同期すれば、両者はごくごく細部まで正確な情報を共有できるのだろうが、その対極にあるのが絵画なのかもしれない。絵画を通して具現化されるような、抽象度の高く、時には何通りにも解釈できるような表現は、「感覚の同期」などとは程遠いい領域にある。にも関わらず、「私」とラースは「感覚の同期」を通した芸術表現を達成してしまう。

 どうやら舞台となっている世界には支配者が存在しているかのように思える。「決して枯れることのない緑の広場」を用意し、患者のメンタルヘルスのために感情の交感を図り、「私」とラースに一種の苦しみを与えるような支配者である。この支配者によって計算しつくされたかのようなこの病院はなんとも不気味である。この支配者とはいったい誰なのか。よく読み返してみると、その正体はある種の近代的思想であったような気がしてならない。人間を対象化しアンドロイドに対しても支配力を維持し続けようとする、近代科学の残党だろうか。情動回路を解読しようとする試みやアンドロイドに課せられた「初期化(リフレッシュ)」など、物語の端々に近代科学の匂いを感じてしまう。つまりは、そんな行き過ぎた近代科学信奉が、病院全体を支配していたのである。

 そんな支配者とは裏腹に、ラースは絵が描けるようになってしまう。〈ハーネス〉(=支配者が入院患者のために用意したシステム)の限界を乗り越えた「私」とラースは支配を脱するのだ。このことを現実世界に当てはめれば、もはやAIに対して(近代的な)対象化のアプローチを試みても徒労に過ぎないかもしれない、という新たな価値観を見出すことが出来るだろう。

 このことに関して誤解を招かぬようつけ足しておくとすれば、「私」とラースが絵を描いている様は、ラースをパートナーとして見立てた二人の「一体化」だと考えられる。本文中では「ラースを完全に道具として使いこなす」という対象化のにおいが感じられるが、実際に「私」とラースがやっているのはそんな単純なものではなく、両者の呼吸を合わせる「一体化」と言えるものであり、これは近代科学の要素とは離れているだろう。作者の鵜川氏の考えは推し量るほかないが、「ラースを完全に道具として使いこなす」というより、「私」とラースが一体化するイメージを盛り込んでおいたほうが、対象化という近代思想の蔓延する病院と、それを打破する「私」とラースの姿とが対比化されたかもしれない。

 「私」とラースに加えて、アルフレッドの存在も重要である。彼はエンジニアであるという点でアンドロイドを対象化する科学者でありながら、ラースに対しては「私」の「一番弟子」として人間同等のリスペクトを抱いているようにも感じられる。冷血そうな一面を持っていながら、ラースに対する「私」の感情にも理解を示せるのだ。

 ところで、本作のタイトルは「時の器」。「私」とラースの感覚同期は「時の流れ」の同期としても表現されていて、「スタチュー」のラストシーンも印象的だ。以下、ラストシーンの一部から引用。

「僕を乗せた時の矢は、無限に切り刻まれる時空の中でその動きを止めた」

この部分はラースの語りで、既に「私」と同期できなくなっている時点の話だ。しかしラースはこの時、緩慢化した「私」の時間と再び同期することに成功する。そして、この「時の矢」で自分の時間から相手の時間へと「移動」するイメージがどことなく呼応させるのが、絵画を描くシーンの描写である。

「六本の筆は並走し交錯し、時には火花を散らしながら、キャンバスの上に逃走の痕跡を刻み付けていく。」

 どうだろうか。アクロバティックな筆の動きが、互いの時間軸を移動するための「時の矢」の動きと重なるようにして感じられないだろうか。

 絵画と時間の関連についてさらに解釈を述べるとすれば、以下の表現もキーポイントだ。

「画家は、絵を描きながら、過去の自分と向き合う。いや、過去の自分が作ってきたもの、鑑賞してきたもの、それらのすべてと向き合いながら、今の自分を削り取るようにして、画面を埋めていくのだ。」

 絵を描くことが、まるでタイムスリップの行為ともとれるような、そんなフレーズで表現されている。さらに、この文章を読むと斬新な論理にも気づかされる。画家自身が「過去の自分が作ってきたもの、鑑賞してきたもの、それらのすべてと向き合いながら」絵を描いているのだとしたら、過去の蓄積を記憶することに長けているAIこそ、(仮にAIに芸術表現が可能なのだとしたら、)それは強力な芸術家になりうるのではないか、ということである。絵画と時間という一見関連のなさそうな両者だが、こうして小説の中で提示されると、新たな考えを生み出す源泉にもなりうる。
 
 芸術をテーマにした小説には、芸術とAIを巡る論争を突き崩す新たな価値観が眠っているかもしれない。まずは本作を通して、そうした知的な想像力を広げるヒントを探してみてはいかがだろうか。

へいすてぃ(論説委員・高校1年)

Photo by ThisisEngineering RAEng on Unsplash

なお、へいすてぃ君の個人noteの記事「【東大英語に学ぶ】クリエイティビティを加速させるAI」は、今回の記事と関連の深い内容となっています。合わせてお楽しみください。(編集部注)


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