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「体験」を「経験」にするために #発信をためらっている君へ

早朝5時のテンションで、なにやら名言風の言葉を思いついてしまいました(noteは朝に書く派)。

「体験」を「経験」にする。

なにやら「良いこと言ってる感」がありますね。

ニュアンスは伝わると思います。
生きていれば毎日いろいろな事がありますよね。言うなれば、これらはすべて「体験」です。だから意識しなくても「体験」はどんどん貯まっていきます。そして、どんどん忘れていきます。
その「体験」を糧(かて)にして、自分の中の引き出しがひとつでも増えたら、それは自分の中で「体験」が「経験」に変わったと言えると私は考えます。

では「体験」を「体験」のままで終わらせず、それを「経験」として自分に蓄積していくためには、どうしたらいいのか。
そこで前回の続きとなりますが、発信することが大きな手助けになるのでは、という話をします。

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発信するということは、2つの要素に分解することができます。

  • アウトプット

  • 拡散

一度インプットしたことを、何らかのメディアで広く「拡散」する形で「アウトプット」することが発信です。

この「アウトプット」と「拡散」の2つのうち、前回の記事「発信をためらっている君へ—発信によって起きた大小の奇跡—」では、主に「拡散」の部分に着目しました。
多くの人に向けて発信することで発信者の思いも寄らぬ場所まで到達することができることを、具体例とともに語ってみました(実体験を語らないと説得力が出ないので、結構具体的な話を書きました)。

でも拡散する以前に、アウトプットすること自体にも大きなメリットがあるのです。それが冒頭の「体験」を「経験」に変えるという役割です。

私(学芸員)の専門にひもづけて、美術作品の鑑賞体験で説明しましょう。

あなたが美術館に展覧会を見に行ったとします。素晴らしい作品を目にして、満足して帰ってきます。
でも1ヶ月後、その展覧会のことを振り返っても「良い展覧会だった気がするけど、なにがそんなに良かったんだっけ?」となってしまう。身に覚えがありませんか?

せっかくわざわざ美術館まで足を運んだのに、これだと何だかもったいない気がしますよね。もちろん、感動した記憶は心のどこかに残りますし、気づかないところで少しずつあなたの価値観に変化を与えてはいるのですが、言うなればこれはまだ展覧会を体験しただけにとどまっているということです。

そこで前から私がおすすめしているのが、短くてもいいので展覧会レポートを書くこと。そう、アウトプットです。

やってみると分かりますが、展覧会レポートを書くのは手間がかかります。思うようにスラスラとは書けません。でも、その効能は抜群です。

あらためて、その効能を整理してみます。

【効能1】文章にするために調べ物をするので理解が深まる。

作品を受動的に鑑賞するだけなら、予備知識がまったく無くてもとくに困りはしないのですが、いざ文章を書こうとするとそうはいきません。作家について、作品について、ある程度情報が必要になってきます。ちょっとネットで検索をする程度でもいいのです。書くために調べ物をする。そのことで、曖昧なまま分かったような気になっていたことが一つ一つ解像度を上げて理解できるようになります。

【効能2】自分でも気がつかなかった感情を認識できる。

いざ、展覧会の感想を書こうとしてもスラスラ書けないのは、作品を前にして受けた感動を自分でも認識できていないからです。
でも文章を書くために、作品を鑑賞した時を反芻して追体験していると、だんだん自分の感情の変化を把握できるようになります。「あの作品を見た時、自分は悲しい気分になっていたんだな」とか。

【効能3】言語化することで記憶に定着する。

ウンウン頭をひねりながら感想を文章にしていくのは、なかなか骨が折れる作業です。でも、それだけ手間と時間をかけるからこそ、展覧会の鑑賞体験がしっかり自分の中に記憶として定着するのです。一度言語化してしまえば、そう簡単に記憶の彼方に消えていくということはなくなるはずです。

私が考えるアウトプットの効能はこの3つです。これらをひとまとめにすると、最初の「体験が経験になる」という表現になるのです。

このアウトプットを自分のメモ帳に書くだけでも勿論いいのですが、それを他者に向けて発信することでさらに大きなメリットがある(かも)という話は前回した通りです。前回の記事とあわせて読んでもらえると、私自身ながく実践して身にしみている、発信(アウトプット×拡散)の力と可能性を理解してもらえると思います。

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というわけで「発信をためらっている君へ」のテーマでまとめてみました。何かの参考になれば幸いです。


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