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<続>「教養」の耐えられない軽さ/ファスト教養ブームは「美術」の終わりの始まりなのか?

前回からの続きです。

さて唐突ですが、ファストフードばかりを常食していてはおそらく健康を害しますよね。
栄養価が低く、また偏っているからです(一ヶ月間マクドナルドのメニューだけを食べ続けるドキュメント映画『スーパーサイズ・ミー』なんてのもありましたね)。

ファスト教養も同じです。
短時間で即効性のある教養を知りたい。なるべくワンメッセージで本質をとらえたシンプルな情報だけが欲しい。そんな欲求に従って、表面的な知識、すぐに吸収できるよう柔らかくかみ砕かれた情報だけを摂取していると、自分で根気強く咀嚼して、学んだことを自らの血肉に変える力は得られないでしょう。

ぐぐっと話をアートの分野に持っていきます。
今年、話題になった展覧会を思い出してみましょう。私が印象深いのは、春に国立新美術館で行われた「ダミアン・ハースト 桜」展です。

開幕中は、Instagram上でも桜が咲き乱れましたね(ハッシュタグ「ダミアンハースト桜」でたくさんヒットします)。
いまスマッシュヒットを放つ美術展の多くは、Instagramの1投稿でスパッと魅力を伝えられる内容の展覧会なのかもしれません。1枚もしくは数枚の画像と短いキャプションで説明しきれるもの。それ以上複雑なもの、背景を知らないと理解できないもの、自分の頭で考えなければいけないもの、は大半の人には見向きもされなくなるのでは、という危機感を抱いています。

例えば、バンクシーの痛快さ、曜変天目の宇宙をとじこめたような美しさ、フェルメールの絵にキューピッドが隠れていたという話題性。どれもワンメッセージで「あぁ、わかるわかる」となります。だからこそ一部のアート好きだけにとどまらず、巷で話題になるのでしょう。

逆に言えば、私を含めて大抵の人は「わからない状態」のものを「わからないまま」自分の中に抱えておくことに大なり小なりストレスを覚えます。「それより早く答えを教えてよ!」となるのです。

美術館側もその心理をハックして、プロモーション活動をします。
まず美術館に足を運んでもらわないことには始まりませんから、この戦略を否定することはできません。100人が来館して、その中の1人でも「もっと掘り下げて調べてみよう」と思ってくれたら万々歳と考えるべきなのかもしれません。

でもその1人をのぞいた99人は、美術作品を鑑賞した体験が何かを胸に残したと言えるのでしょうか。わざわざまた美術館に来たいと思ってくれるでしょうか。

パッと身につくファスト教養に慣れ親しんだ分、分からない状態に対するストレス耐性が、どんどん低くなっているのは間違いない気がします。
美術館に来るような人は、みんなアートを見て「わかる」体験をしたいと思っているはずです。美術・アート系の書籍タイトルに「(名画の)見方」「読み方」「すぐわかる」という言葉が目立つのもその証拠でしょう。
でも現代アートなんて分からないものばかりですよね。作家の深い深い思索の痕跡ですから。私だって現代アートは門外漢なので、見る度に「???」です。
美術史の文脈を踏まえておく必要があったり、作者のこれまで制作遍歴も頭に入れ、さらに作者が語る言葉もヒントにし、鑑賞する側も思考を重ねて、はじめて「こういうことかな?」という自分なりの答えが見つかったり、それでも見つからなかったり。
本当はこの分からない状態であれこれ考える過程こそが苦しくもあり楽しくもあるはずなのですが、正直にそんなことを言ってしまうと、それこそ100人中99人は「うーん、じゃいいや」と帰ってしまうでしょう(今このnoteをわざわざ読んでくれているような人はきっと残る1人の側なので、この心理がわからないかもしれませんが)。ストレス耐性がなくなる、とはそういうことです。
なので美術館側も「難しく考える必要はありません。心で感じればいいんですよ」みたいなフワッとしたことを言って、見る側も「そんなものなのか」と分かったような分からないような気持ちのまま帰る、ということになります。
ファスト教養ブームの行き着く先には、美術の明るい未来が待っていないのでは、と前回記事の冒頭で書いたのはこのような理由からです。

大学に話をうつします。
ちょっと心配になったのですが、いまの大学生たちは90分とか100分の講義をじっくり聴き続けることができるのでしょうか。いや、これは若者を子供扱いしているとか、馬鹿にしているわけではなくて、いまYouTubeを見れば、大学で学ぶようなことをすごーく噛み砕いてわかりやすく解説してくれる動画がたくさん出てきますよね。
再生回数や評価数が可視化されるYouTubeは、より分かりやすく、より面白くしないと見てもらえないという競争原理が働きますから、その点では大学の教員よりよほどシビアです。そういった競争を勝ち抜いた、わかりやすい短尺動画に慣れ親しんだ世代にとって、大学授業はあまりにも冗長に感じてしまうのではないか、と心配しているのです。
「大学4年間で学ぶ○○がこの1冊に」みたいな本も目立ちますよね。枝葉を切り落として、ノイズになる雑談もまじえず、本質的な重要な部分だけを説明するならば、たしかに1年間も必要としないかもしれません。
でもそれって一見スマートなようで、頭には残りにくいのではないでしょうか。自分の血肉にするには、飲み込んだ知識を頭の中で反芻してゆっくり身体になじませていく時間が必要なはずです。
ちょうど私も来年は大学で1年間講義をするので、そこらへんの実際の雰囲気を見てきたいと思います。

すでに書いた通り、私自身の中にもファスト教養にあらがえない気持ちがあります。そして、どうやらそれは年々増しつつあるように思います。
その理由は、現代の人がもつ資産の中で、いちばん価値のあるものが「時間」になってきたからだと仮説を立てているのですが、それについてはまたあらためて。

ただその一方で、ファスト教養の真逆にある価値観、つまり「役に立つ・立たない」ではなく能動的に学びたいと思える何かと出会うためには、壮大な時間と無駄な手間が欠かせないことも理解しているつもりです。
こうした考え方が芯の部分にあるから、ある程度客観的な視点をもってファスト教養を受け入れることができている気がします。ですから、ファスト教養を単に浅い考えとして否定するのではなく、「それもいいけど、こっちもね」というスタンスで、思考や行動の芯になるものを気長に探すプロセスを提示できればいいのかも、と思っています。

そこにアートなり、美術館なりが一役買うことができれば、まだ可能性があるのかもしれませんね。

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