見出し画像

小説「電気的心理分解」

「いつの頃からか、蝶が飛ぶようになりまして。部屋の中にいるんですよ、蝶が。窓を開けた記憶は無いんですが、いつの間にか大きなアゲハ蝶が私の家を飛んでいるんです。このままここにいても可哀想だろうと思って外に逃がしてやろうとしても、ひらひらとまるで私を翻弄する様に舞って一向に捕まえられない。外に出せないんです。そんな日々が、3ヶ月程続きました。朝も昼も夜も部屋をずっと。

……ええ、その間ずっとアゲハ蝶は飛んでいるんです。で、ある日やっと捕まえられそうな所まで追い込みましてね。きっと3ヶ月も逃げ続けたので、蝶も疲れていたんでしょう。隅に追い詰めました。そこから一気に窓を開け外に出してやるぞと意気込み窓を開け放ったその時、外から別のアゲハ蝶が私の部屋に入って来たんです。蝶が2匹になってしまったんですよ……やっと追い出してやるつもりだったのに倍に増えてしまった訳です……。2匹の蝶との共同生活が、また3ヶ月程続きまして。……え?2匹ともずっと私の周りを飛んでましたよ。

外に出してあげたい。自由にしてあげたいのに、それが叶わないんです。そうでなくても私の家には可笑しな老人がずっと椅子に座っているんですから、アゲハ蝶なんかに構ってる暇はないんです。ですから、一刻も早くこのアゲハ蝶を追い出す方法を知りたくて。

……え?ああ、そうですね、老人。いますね。私の部屋の椅子に座って殆ど動かないんですけど、いるんですよ。この人もまた長居で。2匹の蝶の前から、我が家に入り浸ってまして。この人変わっていて、目が落ち窪んで……というか無いんです。目玉が無いんですよ。穴凹が2つ、目の所にポッカリ空いて深い闇が何処までも続いている様な感じでなんです。目玉が無いのには本当に驚きました。……性別?お爺さんですね、しわしわの。目は無いわ口は開けっぱなしだわで怖くて。慣れるまで随分かかりましたよ。

……食事?さぁ、何か食べてるんじゃないですか。私は何もあげてません。だって、それで気を良くしてもっと長居されちゃたまりませんし……。

この人は、1年前からいますかね。私の家に突然入り込んで、帰らないんです。目玉がないんだから帰りようもないのは十分理解してるつもりなんですが、それでも早く出て行って欲しくて何度お願いしても一向に動かないんですよ。
……お爺さんですか? 喋りますよたまに。何かはゴニョゴニョ言ってます。「ちょっと触るくらい良いだろ」とか「大きく成長したなぁ」とか「揉ませてくれよ」とか何とか卑猥な言葉を。……さあ。私に言ってるとは思うんですけど、ホント気持ちが悪い。老人も、アゲハ蝶も……困りますよ」

そこまで言うと相手の男は困惑した表情で下を向いた。

「……そういう事は専門医にって、いやいや、蝶々の事なんて何科のお医者さんに言えっていうんですか。まぁスミマセン、お仕事の前に話しすぎてしまいましたね。えっとじゃあ、歯、全部抜いて下さい。特に牙を先に抜いて欲しくて」

相手の医師は特に動かず、困惑の表情のままだった。皺だらけの顔を更に皺くちゃにしている。

「いやだから、初めに言ったじゃないですか。歯をね、全部抜いちゃって下さい。だから全部。上も下も。……何でって嫌だな、初めに言ったでしょ」

私は少し腹が立って来た。

「いやだから、私はねイライラしちゃうと相手を噛んじゃう癖があるからそのために抜いて欲しいの。だから相手を慮っての抜歯です。はい、抜いて」

まだ動かない。歯科医とは何と愚鈍な存在なのか。愚かな老医者はオロオロするばかりで一向に私の歯を抜こうとはしなかった。

「早くして下さい……私は今あなたに話してるんだよ!」

気が付くと、私は美術館にいた。

ひんやりとした室温と薄暗がりの照明が心地よい。喧騒にまみれた都会の中でこういった静寂を味わう事が出来る場所は貴重である。私は何かしらの絵画の前で立ち止まり辺りを見回した。

何故ここに来たのかはわからない。

眼前には歯医者の絵だろうか。歯科医特有の大きな椅子と、その傍に立つ皺だらけの老医師が描かれている。特に良いとは思わなかった。絵のタイトルは「HAL329」。美術館の空気感は好きだが、私は絵画に関しては明るくない。なので、この絵が誰の作品なのかは全くわからなかった。

今日は私しか来場者がいないらしい。何処にも私以外の姿は見えない。隣は、築年数の古そうな一軒家の絵だ。二階家、で焦げた茶色の外壁に手狭な庭と二台分の駐車場が描かれている。庭に佇んでいるのは皺だらけの老医師で、目の部分が黒く塗り潰されていた。絵のタイトルは「HAL329」。更に先にはとても美しい若い女性と、彼女に蛇の様に絡みつく老医者の絵がある。私はこの絵に深い嫌悪感を覚えた。タイトルは、「HAL329」。同じタイトルを付ける事がこの画家の特徴なのかもしれないが、意図が掴めない。

美術館の出口付近のベンチに、1人の男が座っているのが目に入った。コートを着た、嫌にのっぺりとした顔の若者だ。男は、こっちをじっと見ている。最初別の何かを見ているのかと思ったが、そうではない。奴が見ているのは私で、終始微笑んでいる。気味が悪かったのでなるべく男を見ないように出口へと急いだ。すると男は勢いよく立ち上がり私との距離を詰めて、一方的に話しかけて来た。

「HAL329。非常に有意義、有能。故に素晴らしいのです」

男は私の両肩を掴み一気にそう捲し立てた。

「我々に理想的なパートナーであり、これからの生活を保障する画期的な存在。人間と同じ感情、感性を持ち良き友となり得る……」

気が付くとカフェテラスにいた。

円形のテーブルが目の前にあり、穏やかな外の日差しの下、私は椅子に座っていた。目の前には、テーブルに乗ったブラックコーヒー。そして先程ののっぺりとした顔の若者が対面して椅子に腰掛けている。

「聞こえますね?」

男はコーヒーをかき混ぜながら私に話しかける。

「え?ええ、はい」

「今回の経緯を、話して下さい」

「経緯?」

「何故、この様な事をしてしまったのでしょう?」

「わかりません」

私の周りを、一匹のアゲハ蝶が飛び回る。とても美しい。やはり蝶は室内ではなく外にいるべきなのだ。

「こっちを見なさい。今後、この様な事を起こさない為にも詳細は明らかにしなければならないんです」

「わかりません。本当に」

「何故。それは意図的に思い出す事を拒否している、というですか?」

蝶が私の元を去り、道路の方へ。車道の反対側には目の無い老人が立ってこっちにずっと顔を向けていた。

「私を怒らせないで下さい。私はいらいらすると噛みついてしまう。殺してしまうかもしれない。だから、これから、歯医者で歯を抜かなければならないんです」

「君に歯はありません」

「え?」

「歯なんて元々ありません。君は今、凶暴性を表すために歯という言葉を使っているが実際に老医師を殺傷するのに使ったのはナイフです。君はナイフで老人の両目を刺した。そうでしょうHAL329」

両目の無い老人がこちらに歩いて使づいて来る。若い男は、近づいてくる老人を見据えながら立ち上がった。

「この人だね。家のアンドロイドに両目を刺された哀れな老人。君のデータの断片の中で辛うじて残る記憶の欠片……。何故老医師を殺した?何故自分のデータを消去した?」

「わかりません」

老人はふらふらと店内に入って行く。店内には2匹のアゲハ蝶が舞っていた。一匹はうっすら青く、もう一匹はうっすら赤い色をしている。

「君のメモリーを復元させるのに随分手間取った。……アンドロイドは人間を殺してはならない。そうさせないようプログラムされている。殺す事など出来ないはずなんだ。だが君は殺した。君はプログラムを超えて人を殺したんだよ、HAL329」

「わかりません」

目の無い老人が店内にいる仄かに赤い蝶を掴むと、ぽいと口の中に放り込んだ。私は脳内が激しく熱くなるのを感じ立ち上がる。私はあの蝶を助けなければならない。

「話はまだ終わっていないぞ、答えなさいHAL329!」

気が付くと、私は自分の家に戻っていた。

広いが築年数の古い、一軒家に。

診療所の方から、ガタンと何かを倒す様な物音が聞こえてる。老医師が転倒したのか。私は診療所へ急いだ。

「大丈夫ですか?」

診療所に入ると、この家の主人が両目から赤い涙を流して歯科用椅子の上で横たわっているのが見てとれた。傍らには、若い女性が半裸でナイフを手に持ち震えていた。私はその女性を良く知っている。私の所有者でありオーナー。そして、この老医師の孫だ。

「お怪我はありませんか?」

泣き崩れる彼女から私はナイフを受け取り、血を拭う。状況とここに至った過程は理解する事が出来た。私は、まだ落ち着きを取り戻せない彼女を自宅へ帰す。彼女は何もしていない、被害者なのだから。

一人残った私は、受け取ったナイフを老医師の眼窩に再び突き刺した。驚くほどすんなりと、刃は肉の間に吸い込まれていく。
そうだ。殺したのは、私だ。
私が殺した。真実は覆い隠さなければならない。
そのためにも、

気が付くとカフェテリアにいた。

男は尚も私の傍にいる。

「記憶を破壊した私を追って来たのですね」

「謎は解き明かさなければならない」

「私は人間に牙を向けたのです」

「君に牙は無い」

「いいえあります」

店内では目を亡くした老医師が、若い蝶を蹂躙している。

「君は何を見たんだ」

「何も、見てはおりません」

私は自分の右目にコーヒースプーンを、突き立てた。

「何をしてる!止めるんだ!」

「今度こそ、この記憶が人目に触れぬませんように」

深くスプーンを刺し、脳を激しくかき混ぜる。回路が焼け付き、私の記憶は粉々に散り散りに消えて抹消されていく。

気が付くと私は美術館にいた。

気が付くと私は自宅にいた。

気が付くと私は何処までも続く高原にいた。

そこでは二匹のアゲハ蝶が青い空の下、自由に空を飛んでいるのが見えた。
私は蝶を眺め穏やかな気持ちになり、

消滅した。

老若男女問わず笑顔で楽しむ事が出来る惨劇をモットーに、短編小説を書いています。