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学びへのコメント返ししてみた話

僕のnote記事に大変貴重な、興味深いコメントをいただきました。SNSにコメントがつくということはありふれた日常になりつつありますが、やはり嬉しいものです。その興味深いコメントをいただい記事はこちら。

そこでいただいたコメントは超長文・・・熱量がすごい。これは何かしらの形で答えねばなるまい・・・と思い綴ることとしました。


【どんなコメントが届いたのか?】

実際のコメントがこちら。長文です。
(太字はソガ氏の独断と偏見でグッときた部分です)

始めは「バーチャル町民会議」というワードに惹かれ、記事を拝読いたしました。

読み進めると「学びの在り方」を問う大変興味深く、社会の求め(ニーズ)と学びの動機に目を向けた内容であることに驚かされました。

これからの「学び」はソガ氏様のご指摘する通り、個々の学びに比重を置く学習へと移行していくことでしょう。ただその環境を作り上げるSTEAM教育や教育カリキュラムだけが1人歩きし、子供と教師が学びに翻弄される事態は避けなければならないと感じます。

インターネットから大抵の事象が解決できてしまう時代です。子供に何を伝え、この先どう導くかを教育者側が「再定義」することが必要ではないでしょうか

本文に登場する「数値化」にフォーカスしたトークンを活用するスコアリングシステムは面白いと思います。私見にはなりますが、「数値化」以外の指標では、子供自身が身に付けた学びをアウトプットする。内申の可視化を行えれば良いのかな、とぼんやり頭に浮かびました。

現在の評価基準は、教師が試験や授業を反映したものと内申点による評価に分けられます。二つの決定的違いは後者は子供に開示されない点です。

学力以外の学びがどう評価されているか子供自身は把握できないのです。自分は何が出来ると評価され、これまでに身に付けた学びにどんな価値が付けられているか、これでは子供たちがそこへ意識を向けられません。自分を知らぬまま学校での学びを終えるといっても過言ではありません。

さらに、教師は何人もの学生を相手にしているわけですから子供1人1人の全てを知るわけではないといえます。教師が気付かぬ学び。そして、子供自身が「自分はこんなことも出来る」と意思表現する場が奪われていると云うことも出来るでしょう。

そこへフォーカスを向けるにはどうすべきか。

教育側が、子供の学力定着度合いを教科ごとの一様な価値判断で評価付けするのではなく、課題学習と自由学習の成果出力(自己を商品ラベル化)する。学力定着とは別の視点の評価を子供自身が行うのも良いのではと思います。

つまり、教育版の「ジョブ ディスクリプション」の作成・更新が学びの評価いわゆる通信簿(自己の表現と社会における自身の価値提示)に有効であると愚考します。

また、小中高大学もご指摘の通り、その数、分野、学部学科は多様化しております。それを強みに変えるにはどうすべきか。

前述の評価方法と共に活かすならば、教育機関側もまた自身を可視化(社会における研究価値、意義を言語標準化、社会への課題提起、到達目標の提示)する。その上で、志望する学生に向けて、入学資格を諮る課題、学力到達点を開示する。こうすることで、教育側と学生側のミスマッチが起きにくく、興味関心をニトロに、お言葉を借りるならば「ドライブして」学びを推し進めることが出来ると考えます。

学びを得手とする学生に対し、学力評価による受験を残しつつも、それまでの自身の経験・価値を評価する基準をより明瞭に、学生自身も自分の学びを学習記述書として表現する。この相互関係が学びと教育機関(その先の社会)のミスマッチが生じない環境を形成する、そのように考えます。

私もこの先の社会が、教師任せで教師しか関われないのではなく、誰もが先生として子供達の導き手となり得る社会。その社会の訪れに子供と社会を結ぶ「未来の学校」が貢献することを期待したいと思います。


【我思う、教育の再定義とは】

僕はFacebookも時折投稿をしているのですが、とある日の夜にぼんやりと教育について思ったことを綴ったことがあります。それがこちら。

教育が結局のところ格差を産み、それを拡げる結果しか生み出せていないとすれば、それは稚拙なカリキュラムと相対的価値基準に原因があるのだなぁ…と改めて。未来のために…と今を犠牲にする・したくない努力をするのは一見正しそうで人生俯瞰すると微妙。それは結局「誰かの価値軸に倣え!」の精神から生まれたものだから。

熱量や没入感を纏う体験を覚えれば、そもそも格差は産まれないし、格差という考え自体が「?」ってな具合になるはず。そしてこの感覚は、自分自身の絶対価値軸が育まれる過程と並走する。己の絶対的価値軸を自覚したもの同士の価値交換は実にスムーズ。現実はこれが難しいから、「おいくらですか?」という言葉がなかなか世の中から亡くならない。

本質的な価値軸を育むためにも、新しい交換社会を歩むためにも、体験とアウトプットによる学びの起点づくりは欠かせない。そしてそれは、沢山の出会いとコミュニティに強い相関がありそう。

将来役に立つかどうかではなく、沢山の偶発性をリデザインして、好奇心を土台に敷いた対話と内省のフレームを大切にする学びが未来を創る。
そう考えた時の、学校の価値とは…🤔
意外と見方次第で悪く無いかも

こんな感じ。

【学びのスコアリングは評価ありきではない】

日本で「学ぶ」というと、兎角成績・評価を気にしがちです。これは半分は正しいと思います。仕事でも何でも、他者評価や市場評価は極めて重要ですからね。ただし、殊学びにおいては「半分」なのです。残りの半分は、圧倒的に本人自身から溢れ出る没入感と熱量。これが大事です。そしてこれらは、他者から見てそのプロセスや姿勢や成果について感化され、結果的にスコアリングされる可能性があるくらいで良いのだと思います。

つまり、学力以外の学びは、どう評価されているかを気にする必要は特に無い。

基礎学力はより良く生きていく上で欠かせないものですが、それ以上に生きていく中で、あるいは学んでいく中で熱量や没入感を味わえる体験と幾つ出会えるか、ということは本当に大切だと思います。評価を気にしながら、「もっと公正な評価を!」と言っている時点で、それはもはや個別最適化も何もないんですよね…。


【なぜ相対的価値基準が気になるの?】

この答えは単純明快で、受験制度がそれを求めるから。これです。
そして最近そろそろ言われ始めたこと。それは・・・

そもそも受験で学校に「入りにくくする」はもう意味なくない?

勿論最低限の学力は必要ですが、本人がやりたいこととか、その時点での自分の人生のミッションとかマニフェストみたいなものがしっかりしているならば、入れれば良いと思いません?

そしてその証明ができたり、何か一つの区切りを自分でつけられて、他者の評価に繋がったならば学位をもらって卒業する。やっている途中にしっくりこなければ辞めて、別のものを探す。これで良い気もしますが、これでまずいことってどんなことがありますかね?

相対的価値基準は気にせずに、そして気にしなくても良いような受験制度に変えていくことで、もっともっと本質的に「価値とは?」「人の役に立つとは?」を考えるようになっても良いのかな?と考えるわけです。


【足りないのは体験とアウトプット】

日本の教育って、まだまだ圧倒的に体験とアウトプットが足りないと、今だに感じます。農業体験とか職業体験、総合学習とかありますけど、そういうレベルではなく。社会や地域コミュニティとの繋がりをしっかりと作り、数ヶ月単位で体験と学びを実社会から繰り返し得ていく。その辺がまだ大分希薄です。

最近「何でもググれば出てくる!」とか「YouTubeでプロの技も一流の講師の授業も見られる時代だ!」とか、叫ばれるようになりました。

でも、実際にその恩恵に預かっている方々はどれくらいいるのでしょう?娯楽的消費ではなく。ぶっちゃけ僕もYouTubeとか娯楽的消費が多いです😂まあ後は個人的に効率的に筋トレやりたい時に筋トレ動画を幾つか見て、共通している要素を抜き出してトレーニングに活かしてますけど、そのような使い方を話すと若干驚かれます。ていうか引かれます(笑)

YouTubeもGoogleも、学びの本質を変えるものではないってことです。ただの道具。検索して何にでも手が届くようになった結果、人は何でも器用にできるようになったのでしょうか?

「何でもできるようになった!」という割に、身につくスキルはさほど変わらない人が多いのは気のせいでしょうか?

プロテニスプレーヤーのHow to動画を100本観ても、テニスは上手くなりません。体験が無いから。体を動かしていないから。デジタルの道具が膨大に増えた今、本当に必要なのは圧倒的に体験であり、アナログ&デジタルの社会との繋がりなのだと思います。


【心に響く教育で社会を見て、正しく恐れ、憧れを持つ】

小手先の変化を扇動して、カリキュラムやら教科書を変えたところで学びは変わらないでしょうし、それは結果的に地域社会も変わらない、ということを意味するでしょう。これは何気にまずいような・・・。

社会で学ぶ。社会と学ぶ。老若男女が皆んな、ですよ?そして「なんかおかしい・・・」と思ったら学びのバランスを変えられる社会へ。それでもおかしいと思ったら他所へ移れる流動性があること。これが結果的に学びの質を上げることになるのだと思っています。

基礎学力でもなく、個人の興味や没入感でも無いけれどもとっても大切なんじゃないかな?と思うこと一つ挙げておきます。

それは、日本的な学びや教育でベースとなるのは情操教育な気がしている、ということです。

日本には日本にしかない独自性や魅力ってあると思うのです。繊細な季節の変化であったり、それらを愛でる感性であったり、変化に臆病でありつつも受け入れてからが強いレジリエンスであったり、柔らかな強さを言葉と空気で知らせていくハイコンテクストな文化であったり。

グローバルの基本は、自分達のアイデンティティを言葉にできて語ることができ、ある種の誇りを持てることから始まりますからね。そして日本的な情操教育は物事の見方や考え方を豊かにしてくれるとも思っています。事実は一つしかありませんが、解釈の幅は豊かで無限の拡がりを期待することができる。そしてその可能性は心の感じ方次第というわけです。この「心の感じ方」は、教育によって受ける影響がとても大きな…と感じるのです。

というわけで、つらつらと書き綴り、アンサーになったかはわかりませんが😂
枠組みの議論や検討よりも、ベースを育む環境を、社会から。
手を動かし、対話から社会と未来を変える教育を実践しましょー♨️


・・・コメント返しになったのか?笑

教育に未来を価値を感じて、記事で心が動いた方からのサポートは嬉しいです。いただいた信頼の形は、教育セミナーで使いたい本とかレゴとか…etcに使います!