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Think difficult

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思考を刺激し、ヒントを与えてくれる色々。難しく考えた思考の断片や、気になった記事のスクラップをまとめています。
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#エッセイ

読むことと意思

文章だとわかりにくい。 話さないとわからない。 これっていったいどういうことなのだろう。 文章の方が自分のペースでゆっくり吟味できるから、わかるのに向いてそうだ。 でも、「テクストベースのチャットツールだと伝わらないので、zoomで話しましょう」というのはよく言われることだ。 文章だとわかりにくいものが、口で説明するとわかったと言われることもある。 なんで、そんなに文章だとわからないとなるのだろう? 不思議じゃない? なんでだと思う? 話し言葉だとわかるという幻

上から下へ

インスピレーションは降ってくるものなんだよ。 上から下へ、そう、上から下へ。とあるデザイナーの友人と話していた言葉がおもしろかった。日本人は縦書き、欧米人は横書き。いつかのnoteで、構文の違いが思考様式の違いと関わっているということを書いた。今、読み直したらちゃんと説明していなかった。 例えば、英語は冒頭に主語があり動詞があり目的語へと続いて行く。日本語の場合は、主語があり、修飾語や目的語がいろいろあって、最後に動詞が出てくる。つまり、英語の文法は結論を先に明言し、日本

わかった気になって「バカ」を断罪する病

何かを「わかる」ためには最初は二項対立で分けるのがよいが、そこで止まってしまうくらいなら何もわけず、何もわからないほうがマシだ。中途半端にわかっている人が一番危険である。 正義と悪で分けることの危険性 世の中の人をすべて「正義と悪」で分け、あいつの言っていることはいつも正しい、あいつの言っていることはいつも間違っている、みたいに考える癖がついてしまうと、そこからなかなか抜け出せなっていく。「わかった!」と思って世界がクリアに見えた瞬間、「バカなあいつ」が気に食わなくなって、

表現とは、「正解」の数を増やすことである

りんごが「りんご」である確証はどこにもない。赤くてまあるくて、皮を剥けばみずみずしい黄色をしているそれは、わたしにとっては確かにりんごだけれど、他者から見たら全く違う果実なのかもしれない。わたしが見ているりんごの姿は、所存わたしひとりの目を通して映し出されているものであって、全人類が同じようにその姿を目にしているかどうか、何年生きても自信がない。 そもそも、自分では「赤い」と認識している物体が、他者の目を通してもなお同じように赤く見えているか、それさえも永遠に謎だ。わたしが

「丁寧な暮らし」の“丁寧”の成分はなんなのかを考える

わたしたちは疲れを自覚した「成長」がテーマだった昭和・平成を駆け抜けて来た日本の多くの人々は、疲れてしまったのだと思う。 戦後、とにかく伸び代しかなかった日本は、復興のため、世の先進国と肩を並べたい一心で経済成長を追い求め、モーレツに駆け抜けるしかなかった。まだまだテクノロジーも発達する夜明け前の時代だったから、そうするしかなかったし、その成長はある意味、今の日本で生きる多くの人々を幸せにしてくれたとも思う。 けれど、あまりにも急ぎすぎて、疲れてししまったのだ。 今まで

考える余裕と、考えない生活

便利なサービスとはつまり、考える機会を減らすサービスのことだ。このSUICAで改札を通れるかどうか?を考えることなく、とにかく改札にタッチしさえすれば良い。残高が足りなくても、オートチャージ機能で改札を通過できる。便利。 *** アートとは問いを投げかけることだといわれる。確かにそうかもしれないし、問いを感じない作品もぼくはアートとみなしている気もする。便利なサービスが増えて、考える機会が減った人は、今度はアート的なものを見て何か深遠なものを考えたくなるのだろうか? *

自分で理解する(答えをつくる)

理解するのには、2つのベクトルからのアプローチがある。 1つは、話をする側、何かを表現し伝える側のほうから、受け手に理解してもらいやすく工夫することで受け手の側の理解を得ること。 もう1つは、その受け手の側、話を聞く側であり、何か表現されたものを視聴したり読んだりする側のほうから、自分から積極的に発信者側が何を言ってるか、言おうとしているかなどを理解するために、内容を整理したり、わからない点を質問したりすることで理解を形づくろうとすること。 現代において、前者の努力は方々

評論家は指し示す?

「評論家はいらない」という言葉を聞くとドキッとする。それがたとえぼくに向けられた言葉ではないとしても「こうやって文章を書くことにはなんの意味もないかも?」と考えてしまう。 「評論家はいらない」とまで罵られる評論家の定義は「口先だけで、何もやらない人」だろう。だから「評論家はいらない」の言葉のあとには「ぐだぐだ言ってないでやってみろよ」と続く。 ぼく自身は「評論家は必要」と思っており、むしろ「評論家がいなければ新しいものは生まれない」とすら感じている。「いらない」人とぼくのす

つまらない話

つまらない人の話はつまらないつまらない人の話はなぜ誰も耳を傾けないのだろう。 つまらない人の話がつまらないのは、聞いている自分と、その人の話との接点を見出せないときだ。「なぜ私は今、この人の話を聞く必要があるんだろう?」と思った瞬間、その人の話はつまらなくなっていく。 たとえばここに安部公房がいて、彼が創作の過程や、世界をどのように見ているかについて話し出したとしても、安部公房を知らず、ユープケッチャも知らず、地図や航空写真に興味も見出せない場合、安部公房はつまらない話をす

知識を深める、とは

知識を深める。 簡単に言うが、いまひとつピンとこないワードではあった。 でも、今日そのことについてピンとくる説明にあった。 解像度を上げる1つには「解像度を上げる」ということ。 何らかのテーマについて、どれほど解像度高く理解できているかということ。 どういう状態が解像度が高いかと言えば、特定のテーマを提示されたとき、そのことについて、どれだけ長い時間、さまざまな角度から語り続けられるか?ということだろう。 確かに、それならピンとくる。 僕も1時間でも2時間でもずっと語

考えは浅いほうがわかりあう?

適切な質問を繰り返すと考えは深くなる「なぜ深く考えたほうが良いのか?」の問題はさておいて、「深く考える」とは、言い換えれば根拠を語れるということでもある。なぜを5回繰り返すというヤツ。これは実際にやってみるとだんだんトートロジー的になっていって難しい。 こんなことを書きながら、ぼくは常々、自分の考えの浅さに驚いている。「それはなぜ良いのですか?」と聞かれると、「良いから良い」という言葉が頭の中をぐるぐる回り、結局どう答えたらいいかわからなって沈黙してしまう。適当に答えるこ