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考えは浅いほうがわかりあう?

適切な質問を繰り返すと考えは深くなる

「なぜ深く考えたほうが良いのか?」の問題はさておいて、「深く考える」とは、言い換えれば根拠を語れるということでもある。なぜを5回繰り返すというヤツ。これは実際にやってみるとだんだんトートロジー的になっていって難しい。

こんなことを書きながら、ぼくは常々、自分の考えの浅さに驚いている。「それはなぜ良いのですか?」と聞かれると、「良いから良い」という言葉が頭の中をぐるぐる回り、結局どう答えたらいいかわからなって沈黙してしまう。適当に答えることはできても、それが本当に、ぼくの思う「良さの理由」かどうかはわからない。

でもそう聞かれた帰り道でいろいろ考えて、「ああ、あのときこう言えば良かったなあ」と思う。自分の考えの浅さは、適切なタイミングで、適切な質問をすることによってはじめて気づくものだ。
「で、なぜ深く考えたほうが良いんですか?ブルース・リーも『考えるな、感じろ』と言っていましたよね?」
うーん…。はい。

流れとは違う可能性を見つける

ブルース・リーはさておいて、考えることには、深くその根拠を探るほかに「可能性を見出す」効果もある。

ただ魚のように前だけを見て生きていると、毎日同じように時間が流れていく。忙しい日々に流されていく。考えることでその流れから身を引き剥がし、考えることによって「今日はこうしてみよう」「あれもあるな」という可能性に気づく。そして考えを進めれば、「今日はこうしてみよう」の先に「何が起きるか」も予期できる。その予期が、次に行動するときの参考材料になる。それが考えることの効用のひとつで、可能性を見出せたときや予期できたときにこそ、人は良く動くことができる。

過去を振り返ることの良いこと悪いこと

過去を振り返ると、これからもう少しよく生きるための道を見つけられることがある。「(今までこうしていたけど)、もう少しこうしてみようかな?」という発想は、反省がなければ思いつかないことだ。歴史を振り返ると、ひとつの結果に対して、様々な原因が絡み付いていることがわかる。その原因を解きほぐしていきながら、未来に活かすにはどうしたらいいか考える。
とはいいつつ、人は反省しながらも結局は同じような失敗を繰り返し、または、反省しすぎて自信を喪失してしまう。

でも反省がゼロなら、時の流れに身を任せるしかなくて、時の流れは自分の力ではどうにもならず、無力を痛感するばかりで、生きた心地がしない。「なるべく自分の力でどうにかしたいので、考える」がぼくが「深く考えたい理由」だ「他人の力でどうにかしてもらいたい」なら深く考える必要はない。他人の考えたことをそのままやるほうが効率が良く、速い。でもそれは「選択肢のなさ」や「ぼくには選択ができない」という意味でもある。何かを選ぶには、考える必要がある。深く考えたり、未来を予期したりしながら。子供は日々なにかを感じているけど、自分で何かを考えなかったら親の言いなりで、親の器が大きければラッキーで、小さい器の親に育てられた子はアンラッキー。になってしまう。

考えが浅いと、わかりあえた気がする

雑な言葉づかいは行動の散漫さにつながる。

雑に語ると「はい!」「いいですね!」という賛同は得られても、結果はバラバラになりやすい。「我々にも変化が必要です。行動していきましょう!」と社長が社員向けに語る。社員たちからは「はい!」と元気な返事があるが、「変化」や「行動」の定義は社員それぞれで異なり、酷いことが起こる。コントみたいに。

「変化が必要だと思ったので、メールをやめてファックスにしました。メールはこれまで1日100通しか送っていませんでしたが、今日からファックスを1000通送ります」になるかもしれず、社長は迂闊に「行動していきましょう!」と言った自分を恥じ、頭を抱える。

そんなことばかりが日常で起きている(たぶん)。言葉遣いの荒さは、考えの荒さが原因だ。考えが荒いから言葉が荒くなり、そして、言葉が荒いから行動の精度が下がる。

「変化のために行動せよ!」の言葉でぼくが賛同するのは、「良さそうなものは取り入れてテストしてみる(実験)」か「何か思いついたらひとまず形にしてみる(プロトタイピング)」という意味だ。でも、「買わないと当たらないのだから、宝くじを10枚買ってみる(ギャンブル)」の意味だったら賛同しない。
そして、ギャンブル的な意味だったとしてもルーレットのようなギャンブルではなく、ブラックジャックで良い手がそろっているなら、勝負すれば良いと思う。10が2枚手元にあったら勝負する。21を出すためにカードを変え続けるなら、いつまで経っても勝負できない。

具体的に語ろうとすると、言葉は長くなり、読まれる可能性も減り、意味は複雑になり、賛同する人の数も減っていく。
多くの賛同を求めたいなら、言葉遣いを浅くする必要がある。
言葉遣いの浅さは、「抽象度の高さ」と言い換えても良い。「ポメラニアン」よりも犬。抽象度は高いほうが賛同者の数は増える。逆に抽象度が低いと、賛同者の数は減るが、熱は上がる。犬よりも柴犬。
「本好き集まれ!」と呼びかければそれなりに人は集まるが、お互いに好きな本を見せ合ったら何も噛み合わなかったりする。それなら、アガサ・クリスティ好きで集めたほうが熱意は高まる。でも数は「本好き」に比べると減ってしまう。

いいねを100回押せる設計?

浅い言葉のほうが数多くの共感を得ることができ、深い言葉になると数少なく、熱狂的な共感を得られる。
SNSを見ると「いいね100回押したいくらいです」という言葉を見かける。これはつまり、SNSは熱狂的な共感を数値化できないようになっていることの裏返しだ。それなりのいいねと、めっちゃ良いですのいいねは同じ1いいね。

浅ければ数は多く、深ければ数は少ない

だから数を求めるなら、言葉遣いは荒いほうが良い、という結論になってしまう。そしてそれは、「人の考えは浅いままでOK」ということになってしまう。SNSは「考えが浅くてもそれでわかりあえた気になれる設計」になっている。考えを深めていくほど見る人は減って、深い共感も深い理解も、数値化することができない。
これは民主主義の限界とも関係がある。抽象化した言葉だけを語り、具体案を出さない政治家のほうが、具体案を出し続ける政治家よりも支持される悲劇。

考えの浅さをカバーする演出

考えは浅いほうが数多くの支持を得られ、深いほうが支持が減る。
これが民主主義の限界だとすると、深い考えは不要なのだろうか?

上に立つ人の考えが浅ければ、支持は集めても何もできない。具体的な行動につながらない。考えが浅くても支持が得られた政治家は、具体的な行動はしなくても済むように「やってる感」の演出がうまくなっていく。「やってる感」はしばしば外交で演出される。内政がうまくいかないとき、一国の主は良く外交の旅に出る。本来なら事務官が調整していることでも、外交の旅に出て、他国の首脳と握手する絵は「がんばってるなあ!」と感じさせるものになるからだ。

政治家に限らず、ぼくも自分のやっていることが、ただの演出なのか具体的な行動(または考え)なのか確認する必要があると思う。
「やってる感じ」や「わかりあえた感じ」に惑わされず、その先を見るにはどうしたらいいか?というのが今ぼくの考えたいことである。

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