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考える余裕と、考えない生活

便利なサービスとはつまり、考える機会を減らすサービスのことだ。このSUICAで改札を通れるかどうか?を考えることなく、とにかく改札にタッチしさえすれば良い。残高が足りなくても、オートチャージ機能で改札を通過できる。便利。

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アートとは問いを投げかけることだといわれる。確かにそうかもしれないし、問いを感じない作品もぼくはアートとみなしている気もする。便利なサービスが増えて、考える機会が減った人は、今度はアート的なものを見て何か深遠なものを考えたくなるのだろうか?

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三島由紀夫の小説『愛の渇き』を新潮文庫で読むと、巻末に吉田健一の解説がついている。そこで吉田健一は「小説は、それを書くことも読むことも含めて、すべて文化の名に値するものとと同時に、余裕の産物なのである」と書いている。小説は余裕の産物。逆にいえば、もし日々の生活が大変で、それを成り立たせるために延々となんやかやしなければならないのだとしたら、その人は小説を書くことはおろか、読むことも不可能だということだ

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「アートは問いを投げかける」と誰かが能天気に言うとき、その投げられた問いを受け止めて考えるためには、小説を読むことと同じように、余裕が必要だ。だからもし、誰か(社会を構成する誰か)に考えてほしいのだとしたら、そのときは、ただ届けようとするだけではなく、社会を構成する人々の「生活」にまで想いを馳せる必要がある。

「日本人はみんな能天気だ。社会問題について『自分ごと』として何も考えてない」と、憤って誰かがいう。考えていない事実がもし正しいとしても、その理由はまず第一に「多くの人々が生活に追われているから」かもしれない。
生活に余裕があって何か大それた問題を考えられる人がいる一方で、余裕がない人は、考えなければならないことが他にある。もしアートでもなんでも「考える人を増やしたい」なら、生活に余裕をもたらすことが先に必要で、それなしで「考えるべし」と言い続けても、その言葉は、余裕のある人にしか届かない。

余裕のある人が余裕のある人同士で「社会に対する不平」を言い合っている間に、人々は生活を成り立たせようとしており、それは「便利なサービス」だけでは改善されない。今までやってきたちょっとした煩わしさが解消されたとき「さて次は環境問題か性差別のことでも考えるか…」とはならない。だからアーティストや小説家、国連などが提唱するような大それた問題は、人々の生活水準が上がらない限り、常に後回しにされてしまう。

本日の結論。なし。
以下、ちょっと長いけど、興味ある人向けに吉田健一の解説を引用しておきます。

三島氏はこの作品でも、別にこれと言った仕事を持たない有閑階級を扱っている。これは、氏にとって手馴れた材料であるということだけではなくて、そういう人々の生活に、氏が小説というものの秘密そのものを読み取っているという感じがする。前に余裕という言葉を使ったが、余裕ということの反対が何であるかをここで考えてみることは無駄ではない。生きているのがせいぜいであれば、人間は生きていることについて考える余裕はない。したがって、人間が生きものであるということに興味を持つこともなければ、ましてそれを言葉で描写しようという気も起こさない。小説は、それを書くことも読むことも含めて、すべて文化の名に値するものと同時に、余裕の産物なのである。三島氏はその小説の世界に、まずこの余裕を設定している。そしてそれこそ人間の心の動きに対する無際限な好奇心も、その動きを或る最も溌剌とした瞬間に捉えようとする若々しい野心も、それが成功するために必要などんな手管も許容するだけの余裕を持った世界なのである。



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