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自然に身を委ねてみると少し楽 〜登山の効果〜

山に登るようになって、トレッキング中はもうずーっと頭の中で自分と対話しているわけです。(ソロの時は)
仕事のことだったり、直近の悩みだったり、食事のことだったり、食事のことだったり、ハンバーグのことだったり。
でもたまに、詩的なことも思い浮かぶ(名言と呼んでます)ことがあります。
それはきっと街にいたら忙しすぎて思いつかないことでしょう。
さて、そんなこんなで、モノゴトの考え方がいつのまにか変わっていたので整理してみようかと。
これは仕事だけでなく、生き方そのものにも影響があるかもしれないと思いました。

世界の中心は、あくまで自然である

もう当たり前のことなんですけど、誰も(何も)自分のことなんか考えてくれてたりしないわけです。
50m登ったら少し平坦いれて休憩してもらって、もう少し急登いれたら少しご褒美尾根(たまにある風通りのいい尾根道をこう呼んでます)いれて、、、とか全くないわけです。
そうなると街では自分中心で生きている自分が、自然に自分を合わせにいかないといけないことになります。(バリアフリーの逆の発想)
これは山を登る以上に実は大変な作業ではないかとたまに思います。
休憩をするタイミング、危ういなら諦める選択、頑張って歩き切る判断。
全てテメーの責任なわけです。
選択そのものは自分が主体だけども、事象にそれは関係ない。
自分の世界の中心でさえ、自分ではない
ということに気がつきました。
これは10年前には全く納得できない考え方でした。
今では、すっかりわかりすく、とても好きです。

全部自分の責任(自分の選択)だ、という覚悟をもって行動すれば、卑屈になることもないし、無作為な承認欲求や何より誰かの目線を気にすることもなくなり、すっきりと挑戦できるとは思います。

折り返し時点でHP40%でも容赦なく襲いかかってくる急登

地に足をつけることの大事さ

他にも気づきがあります。
急登で手がかりが欲しい時に、木の根っことかをガッと掴んで登る時の安心感。身を任せたり信じる対象は、地に足のついたもの、根を張ったものがずっといいと実感します。
こんなポエティックなことを考えたりしていますが、そりゃ今よりもずっと自然が近かった時代のことわざ、慣用句とかそういう日本語(語彙が少なくて残念)はものすごく説得力があるなと実感しました。
自分の能力を経験に根を張らせる、とかそういうふうに解釈して頑張るのもありかもですね。(頼りにされる可能性が高まる!)

考え方の基準は「絶対値」にした方がいい

一方で人の手、というか感覚が先行し過ぎていることが気になります。
歩くスピードやコースタイムと山の標高です。

YAMAPの日誌でも山行時間が公開されていますが、たまに「休憩を長くとったのでこれだけ時間がかかりました」という注釈を見つけます。
山登りはスポーツでもあるので、タイムを気にするのはいいと思いますが、人に対してエクスキューズをする必要はないわけです。
自然と向き合うときは、他者の目を気にしなくてもいいと思うのです。
「誰かより早く頂上についた」という事実はそんなに重要じゃないことに気がつきました。

一般的にイメージとして、「登山といえばアルプス」という固定観念を山登りを始める前は持っていました。反面、「低山だからそんなに気合いいれなくても大丈夫だよね」という考えもわからなくはないです。
結果、低山での遭難がとても多いようです。。。
冷静になって、下を覗いてみたらわかります。標高400mの山だとしても30m落ちたら無事じゃありませんよね。。。と。
アルプスだから、低山だから、ではなく人は30m落ちたら死ぬ、という絶対値で認識して準備をしておくことにこしたことはない、ということです。

ものすごくふつーのことなのですけどもね。
とはいえ、「評価」というものすごく相対的な価値観が強い中でも、「今の自分にとってはいいものだ!」という絶対値を持っておくことは自信につながる気がしています。

これを下って登り返すのか、と半分くらい絶望している様子

嫌でも謙虚になれる場所=山、自然

つまるところ、ぼくのように普段は傲慢な人間でも、山に入ると謙虚でいるしか生きて帰ることができないわけです。
どんなに低く、賑やかな山でも、メディカルキット、GPS(ココヘリ)、地図、コンパス、クマスプレーは持っていくわけです。(軽量化に課題)
一方でこういう準備そのものも好きだったりするので、これがめんどくさいという人には山登り(だけでなく自然を相手にしたスポーツ)は向いていないかもしれませんね。

一方で、あらゆるモノゴトに対してある種の諦め感も出てきます。
自然のやることに人知は及ばない、という至極真っ当な諦め。
人も自然の一部だと考えると、「期待通りにならないであろうこと」に対して声を荒げたり、悲嘆に暮れる必要もなく、「まあ、仕方ないか」と切り分けることができるわけです。
そして、「起こってしまったことは仕方ないので、どう対処するか」を考えて動いた方が合理的、と思うと、「突然の別れや理不尽な行いや侮辱」以外には、感情を左右されることがそんなになくなってきました。

自然に対して無理をしない、という引き際を悟る感覚は、この何かとめんどくさいことを気にしないといけない現実の中でもバランスを保つためには必要なのかなあと思ったりします。


登山道の整備いつもありがとうございます。でも、たまに人工物を辿るのが一番しんどかったり…


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