ビジネスホテルの廊下味
ビジネスホテルの廊下味
太った。
ふとった。
フトッタ。
こんなに短い言葉がこれほどの威力を持つとは。
そう、私はここ一年ほどでなんと約六キロ増量した。故意ではない。完全に不本意である。
昨年度に比べて大学に行く機会が減り、家にこもっている時間が増えたこと、ストレス解消のために食に走ってしまう傾向が強まったこと、単なる食べ過ぎ運動不足出不精などなど思い当たる節はかなりある。情けない。
大学二年生の夏から一年間、私は摂食障害だった。時間も目的も意味も見失うほどの勢いでひたすら食べて食べて食べて、食べたことを後悔しては断食して体重と罪悪感をなんとかプラマイゼロにするという生活をしていた。辛かった。食べることって死に近づくことでもあるんだなあ、と少しでも傾けたら中身が出てきてしまいそうな胃袋をさすりながら絶望した。でも食べることで今この瞬間だけでもしのぐことができるのなら、曖昧な未来のことなんてどうでも良かった。寂しかった。
今はだいぶ症状が改善して、泣きながら過食をすることも減った。けれどなぜか体重は当時より増えている。
なぜ?
風呂場の鏡で自分の全裸を見る。最近ジョギングを始めた(ランニングほどのスピードで走れない)ので足の筋肉が少しゴツくなってきた、気がする。かっこいい韓国アイドルがやっているという腹筋トレーニングも始めたので、見方によっては若っっっっ干お腹に縦線が入っている、気がする。過食をしていないから胃袋は従来の大きさに収まっており、横を向いても腹部がおっぱいより前に出ているなんてこともない。
なのに、ズボンがきつい。昨年度はブカブカすぎて無理やりピンでお腹周りを留めていたのに。写真を見ると、去年の方が今より顔がシュッとしていて足が細い。
精神的には今の状態の方が圧倒的に健康であるはずなのに、なぜか体型だけが置いてけぼりをくらっていた。
昨年度の自分だったらきっと「今すぐ体重を落とさなきゃ!」と焦りまくって、とりあえず断食をしていただろう。そして体重と摂取カロリーにとりつかれてストレスを溜め、結果的に過食に走るという悪循環が生まれるのだ。
しかし今の私は違う。
あーなんか、太っちゃったみたいっすね。とうすら笑いを浮かべながら他人事のように呟くだけである。
だって太っちゃったものはしょうがない。まあいいさ、とりあえず油物は控えて、運動習慣をつけよう。そうすればどうにかなる、はず。
大丈夫大丈夫大丈夫、とおまじないのように自分に言い聞かせる。そして、健康食っぽいからいいだろうという勝手な思い込みのもと、毎朝胡麻ときなこを爆食いしている。
毎朝、胡麻ときなこを、爆食いしている。
絶対このせいで太った。わかっている。納豆卵かけご飯をもりもり食べた後に大量の胡麻ときなこを摂取すれば、そりゃあ自分から太りにいっているようなものである。
しかしながら人間の習慣というのは恐ろしいもので、一度始めてしまったらもう止まらないのだ。もう私は卵かけご飯の後の胡麻ときなこがないと、朝ごはんを食べた気がしない。
胡麻はお茶碗に残った米にザバーっとかける。そこに粉チーズとウスターソース(醤油でも可)を加えて混ぜながら食べる。きなこは蜂蜜と一緒にヨーグルトにかけて食べる。きなこ七割、ヨーグルト三割の比率。ちょっと混ぜるときなこボールのような何かが出来上がる。美味しい。
こんなに気味の悪い食事、とても人様に見せられない。幸い、私の家族はそれぞれ好きな時間に一人で朝食をとるスタイルなので、両親はまだ私の奇妙な朝食を知らない。毎朝キッチンに立って(わざわざダイニングテーブルに運ぶのが面倒)、他の家族の足音がしないか耳を澄ませ、スプーンで胡麻ときなこを大量に掬っている。
普段は飽き性な私が、この朝食をもうかれこれ半年以上続けている。奇妙。
胡麻ときなこが美味しいことはもちろんだが、きっと「誰にもバレてはいけない」という緊張感と背徳感が中毒性をより一層強めているのだと思う。
今や週に一袋のペースで胡麻ときなこを消費している。通学のついでに近くのスーパーやドラッグストアで補充する習慣がついてしまった。「いつも胡麻ときなこを買う謎の大学生」として従業員に認知されているかもしれない。
まあでも揚げ物や砂糖いっぱいのお菓子を爆食いするよりはマシだよなあ、と自分に言い訳をしながら、昨日の夕方、小腹が空いたので胡麻ときなこを食べることにした。ちなみに昨日の朝も胡麻ときなこを通常通り爆食いしている。
自室に隠している胡麻ときなこの袋を開け、夕食を作っている母親の目を盗んで持ってきたスプーンで掬う。まずきなこをひと匙食べ、次に黒胡麻を食べた。
黒胡麻の香りが鼻を通り抜けていく瞬間、ハッとした。
あれ、ホテルみたい。
格安ビジネスホテルの黒いカーペットが敷かれた薄暗い廊下を思い出した。昔、友達と泊まった横浜のホテルだった。暑い八月の日。
あの時の廊下の匂いを覚えているわけではなかったが、黒胡麻を噛み締めるたびにホテルの香りだという確信が強くなっていった。黒胡麻の色がカーペットを連想させたのかもしれない。
唐突に懐かしい思い出が蘇り、半ば動揺しながらスプーンを口に運んだ。
これまで数え切れないほど胡麻を食べてきたはずだった。でもこんな思いをしたのは初めてだった。空腹状態で胡麻を単体で食べたから、味覚や嗅覚が過剰に反応したのかもしれない。
ほえーびっくり、と思っている間にみるみる胡麻が減っていった。だが胡麻を単体でばくばく食べ続けることには限界があり、途中でおとなしく袋を閉めた。昨年度の私だったら止められずに、味わう余裕もないまま全て食べ切っていただろう。大した進歩である。
そして今朝、残りの胡麻をまたご飯にかけて、粉チーズとウスターソースと一緒に混ぜて食べた。米、粉チーズ、ウスターソースが加わると、もう胡麻の存在をそれほど感じなかった。ちょっと香ばしいプチプチ程度である。
いつか、あの夏の日、ホテルで話していた友達の声が恋しくなったら、しっかりとお腹を空かせて黒胡麻を食べようと思う。
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