ショートショート 『偶然の罠』
ミケが鳴いた。
閉めていたはずの研究室のドアをまだら模様の額で押し開け、私を見あげた。金の海に浮かんだ瞳孔がジジと膨らみ、そして細くなる。監視カメラの焦点が動くように。
「何もしない」
私は言った。
「今はまだ」
ミケに言ったのではない。
私だって猫に話しかけるほど暇ではない。ミケを通して私を見張っている監視者に言ったのだ。
彼らに気づいたのは、このシミュレーション世界のほころびを探していた時だ。
計算上、我々人類がシミュレーション世界のバグ、いわゆるボイドを検出できる可能性はゼロに近い。
それよりも共通パターンの観点からアプローチするべきではないのか、と私は考えた。シミュレーションのフレームワークは、ある種の単純なパターンで構成されているはずだ。簡素なモジュールを仕込み、複雑な世界を自動生成させる。
私が彼らならそうする。
この世界の細々したすべてをプログラムするのはエネルギーの無駄でしかない。理論上も成り立たない。
とすればパターンが存在する。それが無生物から生物までを含めたパターンである以上、どんなに隠蔽しようとも私の意識に上ってこないはずはない………。
「少し、出てくる」
私はミケに言い、日除けの帽子を手に研究室を出た。念のため、外から鍵を閉める。
大学構内を抜け、並木通りに出たところで振り返った。
やはりミケはついてきていた。夏の緑が陽光を弾くポプラの陰、狡猾な肉食獣の動きで私を追ってくる。三毛猫の毛皮の下、高性能の筋肉が躍動する。
「まあ良い」
私はつぶやいた。
パン屋でハード系のパンを買う。
「いつもありがとうございます」
アルバイトの女性店員が言った。手渡したエコバッグを手際よく広げ、パンを入れてくれる。「世界からは逃げ切れませんよ」
私は礼を言い、店を出た。
パターンに気づいた先人たちは、こんな風に追い詰められていったのだろう。飛び切り敏感な人間、シャーマン、呪術師、巫女や魔女、ある種の宗教者。彼らはパターンに気づき、ある時は渡世に利用し、ある時は皆に警告を発した。そして多くの者が息の根を止められた。
C・G・ユングは、パターンの発現に名前をつけた。意味のある偶然の一致、共時性と。
私は彼の経歴に監視者の影を探した。
彼ほどの知性があれば、パターンが作為なしに自然発生するとは考えなかっただろう。晩年の著作群は、ユング自身が語ろうとしないものの周囲をぐるぐるとまわっているように感じる。
彼は告発すべきだったのだ。
偶然などではない。世界はシミュレーションで、根本に仕込まれたパターンを共有した現象が群れ現れることがある、それを共時性と呼ぶ、と。
他人のことは良い。私はどうする?
私は背後を振り返った。
壊れかけたディスプレイに写ったように、街も人も歪んで見えた。監視者の脅しだ。
母親に手をひかれた女の子が私を見上げ、
「黙っていろ」
と言った。
「私を黙らせることはできない」
私は答えた。「それとも、ここで殺すか?魔女を火炙りにしたように」
「それも良いな」
女の子は笑った。「ママ、ソフト食べたい」
通りの喫茶店の前の、ソフトクリームのディスプレイを指す。
「おじさんが大人しくなったらね」
薄桃色の日傘の下から、母親が私を見て笑った。彼女はミケの眼を持っていた。
私は散歩をあきらめた。大学のほうに踵を返す。
その足が何かを踏んだ。歩道に落ちていたミニカーだった。水色のフォルクスワーゲン・ビートル。考えながら手を伸ばしたガードレールが瞬間的に消えた。
車道を走ってきたのは、やはり水色のビートルだった。運転席で女が悲鳴の形に口を開く。
………洒落た真似をするじゃないか。
私は車の頑丈なフロントで宙に弾きあげられながら考えていた。
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