ショートショート 『邪魔者』
スコープの中、岡島がこちらを見た。
気づいているわけではない。窓の外に広がる夜の街をあてもなく見渡している。ガラスに映っている自分の顔を見ているだけかもしれない。憔悴した無精髭の中年男。武闘派で知られた筋モノにしては生気に乏しい顔だ。
「大丈夫だ。任せておけ」
結崎はつぶやいた。
屋上のコンクリートに固定したAWMのスナイパーライフルのトリガーに指をかける。肘から冷気と都市の震動がのぼってくる。たてかけたスマートフォンの気象データを見た。狙撃の大きな変数になる風は、現時点ほとんどない。距離は620メートル。弾道、偏差、ガラスの強度、湿度………、計算はできている。
岡島が部屋の中央に戻った。白いワイシャツの裾をスラックスの外に出している。椅子に座り、しばらく動かない。エドワード・ホッパーの描く、深夜の孤独な男のようだ。
やがて岡島は椅子の上に立ちあがった。天井を見あげる。首に手をやった。
結崎はトリガーを絞った。
岡島の身体が大きく傾いた。
岡島のレクサスがスピードを上げた。
夜明けが近づいている。空の一角が群青色に変わり始める。
レクサスは湾岸道路を走る大型トラックの群れをすり抜けていく。苛立ったトラックドライバーが甲高いホーンを鳴らす。
結崎のランサーは合流地点に向かった。
カーナビゲーションの地図上に動いている赤の輝点は、岡島のレクサスだ。バンパーの裏に隠したGPS発信機が短い間隔で位置情報を伝えてくる。このルートからすれば、港のどん詰まりを目指しているように見える。
「………面倒な奴だ」
結崎はアクセルを踏み込んだ。
地味な外見に似合わぬエンジン音と加速。背中がドライバーズシートに押し付けられる。
10分ほどで斜め下の道に、レクサスの赤いテールランプが見えた。その向こうにはのっぺりとした海面。街が垂れ流す水で、この明け方の空のように濁った海だ。
レクサスは三車線の道路いっぱいを使って蛇行している。タイヤが煙をあげる。危険をもてあそぶチンピラの運転だ。そして倉庫街を抜ければ、海がある。
結崎は立体交差でレクサスの上を越えた。『ヤジマ金属』と書かれた倉庫の先を左に折れ停止する。待った。
窓を開くと、近づいてくるレクサスのエンジン音が聞こえた。
カーブになったガードレールをレクサスのライトが舐めた。オレンジ色が動く。
結崎はサイドブレーキを外し、ランサーの駆動力を解放した。アスファルトに躍り出て、レクサスに真正面からハイビームを叩き込む。一瞬、岡島のシルエットを見た。
悲鳴じみたブレーキ音は、レクサスのものだった。衝突を回避しようと左にハンドルを切っている。尻が振れる。
渦を巻く形でその鼻先をランサーが掠めた。
背後に金属性の衝突音。
結崎はランサーを停めた。
レクサスはガードレールに鼻先を捩じ込み停止していた。顎が外れた犬のようにフロントバンパーが傾いている。運転席にしなびたエアバッグが見えた。
用意された鍵で、ドアは問題なく開いた。
結崎は耳を澄ました。
男の咳き込む声が聞こえる。廊下の左奥にあるバスルームからだ。
突き当たりは広いリビングになっていた。朝日が殺風景な部屋に射している。広い窓に近づくと、三日前に撃ち込んだ銃弾の跡がまだあった。取り替える気力はないらしい。
結崎は椅子に座った。タバコを吸いたいが、灰皿が見当たらない。サイドテーブルには、ピルボトルとグラスが並んでいる。床には乾いたウィスキーの瓶が転がっていた。酒が匂う。
トイレの水を流す音がして、足音が戻ってきた。
「………お前、誰だ?」
部屋の入り口で、岡島が聞いた。間近で見ると、更に窶れたのが分かった。
「心当たり、ないか?」
結崎は聞いた。
岡島は用心するように壁際のベッドに腰を下ろした。
「うちの組からじゃあないな?」
「ヤクザに見えるか?」
岡島は首を振った。
「しかし見覚えはある」
「首吊り未遂に」
結崎はガラス窓を指差した。「海にダイブ、そして睡眠薬の過剰摂取。まあ実際は、あんたの女が入れ替えた下剤だったわけだが」
岡島の顔が赤黒くなった。
「この野郎」
上げかけた腰を、力が抜けたようにベッドに戻した。スプリングが軋んだ。「………思い出した。お前を知ってる。しかし、何のつもりだ?」
「商売替えをしたんだ」
結崎は答えた。
「殺しをやめたのか?」
「ああ。殺し屋は廃業して、今じゃあ生かし屋だ。あんたのように死にたくてならない悪党や、たまには善人を生かす仕事をしている。できる範囲でな」
「金になるのか、そんな商売」
岡島は聞いた。
「知ってるか? 殺すより生かすほうが難しいんだ。その分、ギャラも良い。何しろ、人間、放っておいても死ぬからな。あんたのように」
岡島は無精髭の顔を両手でこすった。
「………知ってるのか?」
「癌だってな。もってあと一年。それで手っ取り早く死んでしまおうと考えたか? それとも罪の意識か?」
一年前、岡島の主導した抗争の巻き添えになり、幼稚園の送迎バスが横転した。一人の園児が死んだ。三下が自首して表向きは片付いたが、園児の祖父は結崎に依頼した。実の娘との関係は切れていたが、孫に対する骨肉の情は失せていなかった。そして彼には、結崎を雇えるコネクションと財力があった。
「分からない」
岡島は言った。「あの子のことを含めて死とやらをじっくり考えたのは確かだ。罪の意識だと言うなら、そうかもしれない。グズグズ考えるのは性に合わないんで、チャラにしたかったのかもな」
「死ぬまで苦しみ、怯え、考え続けろ」
結崎は言った。「それが依頼主のリクエストだ」
「俺が自殺しなくても、組のほうが口封じに来るかもしれない」
岡島は言った。「その場合、どうする?」
「こっちの仕事は、あんたを生かし、できるだけ苦しみを長引かせることだ。邪魔をする奴は排除する」
「………難儀な仕事だ」
岡島は笑った。
「そうかもしれない」
結崎はうなずいた。「こう見えて、付き合いの良い方でな。だから、死ぬなよ」
「せいぜい努力するさ」
岡島は言った。
結崎は椅子から立ち上がり、静かに部屋を出た。
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