ショートショート 『11時の夜汽車』
カーテンを細く開くと、オレンジ色の街灯の下、町は眠りにつこうとしていた。舗道に人の姿はない。黒い犬が駅のほうに小走りで駆けていく。
時折、夜空の一角が白く光った。雷が近づいているのだ。
「雨が来るわ。どうしても帰らないといけないの?」
背中で、マリアナが聞いた。
僕はカーテンを閉め、彼女を見た。
「言っただろう。母さんが待っているんだ」
「ジャサナンに着くのは、ずいぶん遅い時刻になるでしょうに」
マリアナは言った。「明日の朝にしても同じじゃない?」
「母さんは寝ずに待っている」
僕は言った。「心配性なんだ」
「ひとり息子を心配している」
「ああ」
僕はうなずいた。
マリアナはグラスに残っていた安物のワインを飲み干した。硬いパンにチーズ。それが今夜の僕たちのディナーだった。
薄い壁のむこうで、年寄りが咳をする。
「いつまでも続きはしないよ」
僕は言った。「時代なんていずれ変わる」
「分からないわ」
マリアナは首をふった。黒い髪が肩で跳ねた。「彼らの後ろにはアメリカがいる。あの国は、ブラジル市民のことなんか気にも留めていない。何人逮捕されようと、拷問されようと、殺されようと」
「気にさせるのさ」
僕は言った。「そのために、今は働かなきゃあならない」
「そして、あなたの母親は心配し続けるのね」
「君は?」
「信じている」
マリアナは言った。
「11時になる。………行かなきゃあ」
僕はジャケットを着た。内ポケットの手紙を確かめる。今の時代、郵便は当てにならない。秘密を守りたければ、自分で運ぶことだ。
「あれは?」
マリアナが、壁際のチェストを見た。そこには、黒光りする拳銃が収まっている。弾丸は装填されている。
「やめておこう」
自分の恐怖心をねじ伏せ、僕は答えた。「奴らに捕まったとき、持っていれば酷いことになるだけだ」
「そうね」
微笑むマリアナを軽く抱き、僕は部屋を出た。
雨雲との競争には勝ったようだ。
僕は駅に入り、最終の汽車が出るホームに向かった。
客は多くない。皆、くたびれた顔で大きな荷物を抱え、階段を上っていく。
汽車はもう来ていた。黒い巨大な生き物のように線路にうずくまっている。動力機構の震動が足元から伝わってくる。
僕はジャケットの下、マリアナの移り香を深く吸い込んだ。汽車に近づく。
「君、ちょっと」
呼ばれ、僕は振り返った。
灰色の揃いのスーツを着た男が三人。鉄道員ではなかった。三つ子のように雰囲気が似た男たちだった。表情のない目。軍警察かもしれない。
「どこまで行く?」
栗毛色の髪の男が聞いた。
「ジャサナンです。母が待っているので」
僕は答えた。
「身分証を」
男が当たり前のように手を出した。
拒否することはできなかった。僕は学生証を男に渡した。
「………その齢で、まだ母親と住んでいるのか」
眼鏡の男が挑発するように言った。
「病気がちなんです」
男は唇を歪めただけだった。
「君に、聞きたいことがある」
栗毛色の男が学生証を返し、言った。
「母が待っているんです」
「時間は取らせない。明日の朝には汽車に乗れる」
男は言った。
「お前が運んでいるものを大人しく渡せばな」
眼鏡の男が笑った。
僕は息を吸い込んだ。
やはりそうだった。………内通者は、マリアナだった。
ふたりの男は、偽の手紙の運び手である僕の腕を両側から捕まえた。今頃、仲間がジャサナンとは別の方角に車を走らせているはずだ。本物の手紙をたずさえ。
近い空で雷鳴が轟いた。大粒の雨が降ってくる。
雨粒のカーテンの向こう、ホームにマリアナの白い顔があった。
表情までは分からない。裏切った男の顔を見物に来たのか、罠の首尾を確認しに来たか。
僕は微かに頭をふった。
恨みはない。この国が変われば、再び会う日が来るかもしれない。今は互いに生き延びることだ。どんな形ででも。
これが僕たちの時代なのだから。
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