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長雨が夏を堰き止めて

透明な床を勝手に想像して、時々胸ドキドキする昼時ひるどきがある。どんな物事にも「ありえない」と一蹴してしまえばそれでしまいなんだが、それでは人生は少々ちと味気ない。長雨が夏をまだき止めていてくれるうちに、ひとり悔やむ週末をぶち壊したい。


「90年代仲間ですから」Twilight

職場の他部署の上司がちゃんとオタクで心底れする。高田裕三作品の『3×3EYESサザンアイズ』のVHSが無情にもポンと払える金額ではない事を彼にも嘆いていたのだが、ひょんなことから第一シーズンの全四巻が格安で手に入ってしまい、その映像(10秒ほどの二巻の予告)を見せたところ「林原めぐみのカタコト…」などと90年代アニメの“ソコ”をわかってくれて、心が軽くなって救われた気がした…『万能文化猫娘』でもヒロインのヌクヌクはCV林原めぐみさんで、高田裕三作品と林原めぐみの組み合わせは、言うなれば“庵野作品に日高のりこ”みたいなお決まりの親和性があって、作品の世界感を味わい深いものにする要素としてかなり大切な一つになっていると私は思う。そういうアニメ文化の“ソコ”って、まぁ当時を生きていればなんとなくわかるんだが、まず同年代で理解を示してくれる人はいないし、歳上だとて「あぁ〜なんとなく覚えてる」みたいな、記憶から薄れたボロ布を持ってる人ばかりだった。それ故に新品ピカピカの思い出を保っている人に出会ったのは本当に初めてだった。
私は常日頃から自分の趣味に対して、あまり好意的な印象を持っていない。それは懐古主義的な傲慢なプライドではなく、ただただ現代のサブカルに着いていける臨機応変な感性を持てなかったという、強い劣等感からくるもので、併せて「幾つになってもアニメ好き」と言う事を未だに受け入れられない拒否反応が強いためである。私はオタクである自分が正直言って恥ずかしい。80年代や90年代のアニメに心が動き、ときめいては夜な夜なひとりビデオを再生する自分が気色が悪くて仕方ない。もう半分妖怪だろう。(オレに獣の槍を刺せばフツーに滅びると思う。)他人の趣味はどんなものであれ本当に尊敬出来るが、私はダメだ…大人になりきれない私は世の中から非常に遅れ劣っている。ディグればディグるほど、取り残されていく疎外感は増してゆく…そんな暗闇を照らしてくれるのは、なんとなく寄り添ってくれる情けのやさしさではなく、ただただ当たり前のど直球な理解である。思い出すような懐かしみではなく、その当時の温度感そのままに語り合ってもらえる時間はオタクとしての私を救う、天からのおぼしである様に感じる。そんな本物の90年代に少年時代を生きた彼がさりげなく言った「90年代仲間ですから」の言葉は、10歳も下の私には有り難く、それは頭を撫でられる様な昼下がりではなく、肩を組む様な黄昏であったと静かに咀嚼している。

生物園Possibility

前日、遅寝したにもかかわらず、日曜はアラームよりも少し早く目が覚めてしまった。寝ぼけた右耳にぼたぼたと雨音が聞こえ、窓の外の大惨事が浮かんできて「あぁ今日は中止かな…」なんて落ち込んでいた。絶対にどうしても行きたかったわけではないんだけれど、足立区生物園が所謂人気観光スポットとは違い、人が多過ぎず“こぢんまり”していていいな〜と思っていたから、いつもの生活圏ビオトープから少し離れ、人間以外の生物に触れる機会をなんとなく作りたかったのだ。それが何になるかもわからないけれどとにかく私は行ってみたかった。以前付き合っていた人に「アニマルセラピーもいいんじゃない?」と言われたことが心に残っていたからだ。電車に揺られるうちに小雨へと落ち着いて、なんとか逃避は決行出来そうだった。
思ったよりも生物園は人が多くごった返していた。ただやはり家族連れが多く、地域に愛されているんだろうなと感じられてとても良い。生物園というだけあって本当に多種多様な生物達の園であった。大小問わず、深海から空まで非常に幅のある内容であった。ふれあいコーナーのモルモットを触るとき、好きなイラストレーターのそれ〜ゆさんのねずみや、リックさんの飼っているプレーリードッグのペッシとか齧歯類げっしるいと暮らす人達を思い出して、彼ら彼女らは「こんなに尊いものと生活を共にしているのか…」と少し羨ましい気持ちになった。ただ同時に私が生き物と暮らすのはありえないなとも再確認した。そんな経済力も無ければ、生命いのちの責任を取れるほどの器量もない。でももしもいつか、本当に万が一にでも未来の私が生き物と生活を共にする事があるのならやっぱりネコチヤンがいいな…のびのび自由に生きていたいと願う私の理想的な出立いでたちだもの。


ナイーブなひとDOWNTOWN BOY

オレはナイーブな人らしい。別に自身で感じて思ってるわけじゃないけど、他人が言うのだから少なくともそう見えている事はまちがいないんだろう。別にそれが良いとか悪いとかそんな話をしたいわけではなくて、松任谷由美の『DOWNTOWN BOY』の歌い出しが「あんなにナイーブなひとにはそれまで会ったことなかったわたし」とあって、思い出の中の男性に想いを馳せるシーンから始まるこの歌は、結果的にナイーブな彼とはうまくいかなかった淡い失恋の歌ではあるんだが、なぜかそれだけで黙らせないナニカが、音に乗り血に巡るのだ。何よりも美しいのは「どこかで恋をしてるなら今度はあきらめないでね」とイヤミなく歌っている事だ、願っている事だ、祈っている事だ。オレならどうだろう…もう行方も知れない相手にそんなふうに願えるだろうか…?。あなたのその胸の内の輝きを“死ぬまで失わないでね”なんて祈れるのだろうか…?。こうした屈託のない“黄金の精神”にただ「カッケ〜」なんて他人事ひとごとで済ませていいわけがないんだよ…。別にそれは恋人だったからとかそんな色恋な話チープトリックじゃない。もっともっとこう…偉大?で高潔?な思考だと思うんよオレは。誰にだって分け隔てなく注がれるべきである、がしかし…!!…しかしながらそんなわけにもいかないのが人間なわけで…だからこそ心をそそぐ相手はやはりきちんと選ばなくちゃあいけないんだよな…。
大切なのは誰にでもそれを注げる準備をしている事で、最初ハナから注ぐ気を持たない、手を差し伸べる気がない、というのが何より心を乏しくする1番の要因だとオレは理解した。慈悲をかけられる相手なんて限りがあるに決まってるしそんなの誰だって理解わかってる。理解わかっていても根底にその精神を持たなくちゃあ“柔らかい心”は維持できない。人間のあたたかい体温の水の中でしかそれはあり続けないんだよ…難しいよなほんと…。

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