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それぞれの立場

ここ数日、Twitter教員の中で「何年生は楽」とか「何年生は大変」とかそんな話を耳にする。

正直、ちょっと悲しい。

私はきっと幸運なのだ。小学校も中学校も経験した。特支も経験している。
そんな私だからできる発信をしたいと思って、今書いている。

初任〜中規模の中学校
「何もわかりません、テヘペロ」

初任で配属されたのは、中規模の中学校だった。中学校は中規模(学年2〜2学級)が人員配置的に一番きつい。担任と副担任と学年主任で人数ギリギリ。持ちコマ数も多い。

大卒すぐの初任だったこともあり、右も左もわからないままたくさんの先輩にお世話になって、生徒にもたくさん迷惑をかけてしまった。今でも後悔が残る。
授業のやり方も全然勉強が足りなくて、なんとなく誤魔化して乗り切ってしまった。

授業研とかでは書写の授業を公開し、誰もコメントしない授業をした。
中学校の授業研はお互いに教科のことに口出ししない雰囲気があって、指摘もされなかった。私が「こういう意図です」といえば、それが通った。

生徒指導がなかなか大変な学校だったのだけれど、今思えばただただ担任の力不足だった。周りに甘えていた。

二校目〜大規模の小学校
「人生のターニングポイント」

二校目に異動になるタイミングで、小学校へ異動になった。
学校規模が大きく、学年4〜5クラス。担任だけの学年団。主任はいない。
(のちにこれは組合との絡みだと知った)

最初に持ったのは5年生。高学年だし中学生みたいなもんだろうとタカを括っていたが、全く別物。保護者からは「先生が冷たい」とお叱りを受ける。
一日中一緒にいることの大変さを身をもって知った。

そして大変なのは教材研究。中学校のように同じ授業を何度かできるわけではない。毎日一発勝負。膨大な教材研究の量。
連日深夜まで教材研究をしていた。
生徒指導も基本は自分一人でやらなければならない。

この経験が、今の私の根幹にある。

授業への考え方が変わったのもこの頃だ。
私は国語科が専門だけれど、正直、教材研究の仕方もよくわからなかった。
知識でしか知らなかった。
小学校の先生は熱かった

全員が国語や算数を教えるのだから、どこからでも指摘が飛んできた。何度も直され、悔しくて泣いた。事後研が大荒れの授業もあった。

でも、そのおかげで人前で授業をすることへの抵抗はなくなった。
もっと国語の授業を研究したくなった。

大きな転機〜低学年との出会い
「あったかいちっちゃい手」

大きな転機は2年生を担任したことだ。
ずっと高学年をもっていたが、初めての低学年。
教室に入ると、机も椅子も小さかった。椅子に座ると、教室が大きく見えた
黒板には、前の先生が残していった「右」「左」というラミネートカードが置いてあった。(ここから教えるのか…)とちょっと怖くなった。

授業をどう進めて行くか、手探りだった。
でも、ある日の生活科の授業を今でもはっきりと覚えている。

その日は「学校の周りの春を探しに行こう」というもの。
まだ寒い北海道の4月。靴を履き替えた私を待っていたのは、
先生、一緒に行こう」と私の手を求めて繋いでくるたくさんの手だった。
小さくて柔らかくて暖かいあの手。

中学校で相手にしていた、反抗期真っ只中のあの子たちにも、こんな頃があったんだ。

衝撃を受けた
純粋に、私と手を繋いで歩こうと順番待ちする子供たち。
その暖かくて柔らかい小さな手の子たちが、大人に裏切られ、傷ついて反抗しているのかもしれない。そう思った。

この子達の、いいところも悪いところも、受け止めるところから始めよう。
そう思って、読んだ本がコーチングの本だった。
それがコーチングの出会いとの第一歩。子育ての本だった。

子供たちと体でぶつかって、真正面からぶつかって受け止めて、小学校を後にした。
全校1000人近い子供達の前で歌うことも、踊ることも、恥ずかしくはなくなっていた。研究授業も楽しいとすら思えた。
その頃には「先生が冷たい」とは言われなくなった。

三校目〜大規模中学校
「発達段階のバグ」

次の異動希望を書くとき、ものすごく迷った。
小学校でそのまま続けるか、中学校に戻るか。

小学校でのスキルを持って中学校に異動したら、見える景色が違う気がした。
運を天に任せた。

結果、中学校に異動になった。
すぐ、2年生の担任。

小さい手のひらの子達は6年経って、なんでもできるようになっていた。
小学校から来た私を舐めていた。
でも私はそれに気づかなかった。

授業は充実していた。でも、学級は回らなかった。
中学生に渡す自治権を私が握り損ねたのだった。

なんでも受け止めてくれる担任に、生徒たちは甘えた。
好きなことを好きなだけするようになったと気づいた時には遅かった
保護者からは「先生のことを舐めてます」と言われた。

教壇に立つのが怖くて、ある日の朝、着替えの仕方がわからなくなった。
適応障害の診断が出て、休職。

復帰、そして移住

半年以上の療養の末、復帰した時には教科指導だけが生き甲斐だった。
幸い、授業はうまく回っていた。
初めての副担任。
学級を外から見て、見えるものがたくさんあった。

そんな中、夫と出会い、関西へ移住。
また新たな土地でのスタートになった。

北海道と関西では、システムも全く違う。
同じ中学校とは思えない。
指導要領は同じなのに、こんなにも違うものかと驚いている。

世間は広い。

自分が見えているところだけ切りとって、どっちが大変なんて比較しても始まらない。

しかも、背負える荷物の量だって人によって違う。
それぞれの立場を思いやれる先生集団になったら、もっと環境は変わると思う。
だって、それぞれがプロフェッショナルなのだから。

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