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聖徳太子非実在説とは何か

日本人なら,だれもが知っている偉人,聖徳太子.その実在と非実在について,日本においては明治期に始まり,議論されてきた.
それまで聖徳太子の書いたとされたもの,作ったとされたもの,聖徳太子とされた絵画,その歴史的史料の多くが,聖徳太子が生きた時代よりあとに製作されたものであるという研究的事実に対し,起こった議論である.
本記事は,聖徳太子が実在したのか,しなかったのかを考察するものではないし,それぞれの説を解説するものでもない.それぞれの説の間の議論について,見ていくものである.

実在説への批判

さて,聖徳太子には実在/非実在論があり,そのどちらの立場においても,自分の主張を認めさせるために客観的な視点が抜けることが散見されるようである.聖徳太子の実在について否定的立場を取る論文には,次のような記述がある.

坂本はこの書で,津田説など,「聖徳太子」関係史料の多くを批判,否定する「進歩的」な学説を認めず,…(中略)…しかしながら,坂本の議論は論拠がはっきりと提示されておらず

「近代歴史学と聖徳太子研究」,33p,吉田一彦,『聖徳太子の真実』,大山誠一編,平凡社

坂本,と言うのは坂本太郎であり,「日本古代史」など歴史教育においても重要な見解を示した大変優秀な人物である.彼は熱心な聖徳太子信仰を持っており,史料を聖徳太子のものではないとした学説について否定的な論文を記している.つまり吉田一彦から見れば,坂本は非実在説を批判しているが,その学説は全く理論的でないということである.

非実在説への批判

対して,この議論に中間的立場を取る論文では,次のようにも述べられている.

戦後の批判的研究の行きついた結果,というよりはすこしずれた方向へ行き過ぎた例が,中部大学の大山誠一氏が唱え,名古屋市立大学の吉田一彦氏が道慈の役割を強調するなどして補強した聖徳太子虚構説です.…この虚構説は,厳密な文献批判に基づく研究とは言いがたい部分が多い主張でした.

『聖徳太子 実像と伝説の間』,33p,石井公成,春秋社

これは先ほど坂本への批判を行っていた大山誠一と吉田一彦の学説「聖徳太子虚構説」への批判である.先ほどの坂本は,聖徳太子への信仰から自身の学説を論理的でないものにしてしまったが,それは,虚構説も同様であり,虚構説の唱える「のちの時代の人が聖徳太子を創作した」という学説は,論拠に欠けるということである.
中間的立場を取る筆者からもこのように表現されているということから,聖徳太子実在論を支持する主張については論拠がないと判断できたものの,自分たちの理論については客観的に見定めることができなかったことがわかる.

聖徳太子信仰と非実在説

“聖徳太子信仰”と聞けば,聖徳太子とそれに付随する業績・伝説を崇拝するものというイメージが思い浮かぶだろう.しかし,その信仰は実在への信仰と並行して,非実在への信仰もはらんでいるようである.どちらの立場においても,もはや聖徳太子への信仰ではなく自身の主張に対する信仰と変化しているのである.
さて,この実在/非実在論には善悪という概念や正解は存在しないと考えてよいだろう.一つに,これは信仰に対する否定から始まったものであるからだと考えられる.もちろん,非実在側が「歴史的事実」を求めたことはそれもまた事実である.しかし当初はほぼすべての日本人が実在を疑っていなかったので,非実在論を問題視したのは聖徳太子「崇拝」側であり,それは崇拝側からしてみればーそれを認識していたかは別としてー“信仰”への否定であっただろう.その後,歴史的・考古学的考察の結果としての事実が積み重なっていく中で,この実在側という立場が,“宗教的”信仰とも言える立場に変化していった.

この議論に終わりはない

ところで,聖徳太子非実在説の立場からすれば,この議論はどのような結末を迎えるのが正解なのだろうか?もし,「聖徳太子の業績はほぼすべてが捏造だった」という内容を教科書に載せたいとするならば,この達成には実在側の“信仰”を打ち砕くだけでなく,一般的な日本人の「常識」を変えるほどのインパクトを持った学説が必要である.
この議論に決着がつかない理由の一つは,聖徳太子の業績の捏造を「聖徳太子以外の誰かがやった」という根拠もまたないからだろう.このため,虚構説という非実在説に対する一種の妄信的な論説が生まれたと考えられる.信仰に対する否定のために,無理やりな虚構説を提示したのかもしれない.

これは,宗教家と理論家との論争にもよく似ているだろう.そもそも,強い言葉を使うなら,聖徳太子の生きた時代の事実などもはや誰もわからないのである.誰もわからないことを,これが正しい・間違っている,と議論しても正解はない.あるのは議論だけだ.
宗教も同じで,死後の世界や,目に見えない天使,スピリチュアル,原罪が存在するか,しないかという客観的な事実はないのである.このようなものに対する判断は最終的には主観が強くものをいう.宗教や信仰は善悪二元では語れず,客観的判断をすることも難しい.信仰に対して嫌悪感や否定的な見解を持つ者もまたそのような主観に対する信仰を持っており,その扱い方には気を付けなければならない.

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