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象の喪失

ぼくは天王寺動物園に像が飼われていて、2018年に死んでしまったことをを知らずにいました。再放送で知りました。ヘッダ画像をお借りしています。

象の名前はラニー博子さんでした。女の人なのでしょう。

ぼくは人間よりも大きな生き物が死んだ場合に、その後どうなるのかについて考えたことがなかった。そのためあらゆる衝撃があった。

ひとつは足を悪くした博子を横たわせないといけないんだけど、横になると自重で呼吸が圧迫されてしまうらしい。では普段どうやって寝ているのか。

結果的に、博子は横たわる姿勢を基本姿勢とするようになってから数日で死んでしまった。飼育員の1人はそれを横になれて安心して逝ってしまったんだと形容しますが、そのような考え方もあるのかと思わされた。

ラニーは50年ぐらい生きていたので、飼育する任を負った人がたくさんいる。代替わりみたいに変わっていったんでしょう。そしておそらくその大体の人が紹介されたように見えるが、50年という年月はもっと永いのかもしれない。今はもう別の企業に行ってしまった人もいるかも知れないと考えれば、これでもごく一部が紹介されたに過ぎないのかもしれない。

ラニーが死んだ時は何らかの方法で足が傷まないように起こしてやる指針をまとめて実践しようというタイミングだったように見える。起こすための激励をしている最中に反応が消え、まぶたを開き(まぶたをあけるちからもなかったように見える)瞳孔に光を当てたら反応しなかったため、その時点で永眠したというテロップが表示される。

横たわってしまった相手へ祈る場合に、ぼくは相手と視線を近づけるためにしゃがんで挨拶したいと思ったことがある。往々にして葬式で送られる人は参列者たちよりも低い場所に頭があることが多いようにぼくは思う。頭を近づけて何かを伝えたいとぼくは思うし、今までも実行してきた気がする。死んだ人に頭を近づけることは悲しみが増す行為でもあるように思う。

職員もそれぞれ思い思いに祈っていた。泣いていない人のほうが少ない印象だった。驚かされたのは、獣医による説明で「集まってくれてありがとうございます。黙祷しましょう」の後に、よく聞こえませんでしたが火葬しなければならないということで、次の次の日ぐらいに解剖されていたことです。

多分体躯が大きすぎて、火葬場へ連れていけない。遺体に手を加えなければならないという事実は何か圧倒的な心的負担があるように思えますが、動物園における葬式においてはもはや通例、常識なのかもしれません。ぼくだったら、この後彼女を解剖しなければならないという予定により悲しみを持ってしまいそうです。

来場者からは信じられないほどの数の献花があり、中にはすいかの断面を薔薇に切り抜いた意匠がありました。高齢のお客のなかには泣いている人もいた。


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