騎士団長殺しの下巻を買った
これは毎日noteを書かないといけない強迫観念を持つ者には共通する感覚があると思うんだけど、その日に何を書くかについて考えると2種類あるんじゃないでしょうか。ヘッダ画像をお借りしています。
それは
・その日に浮かんだ新しいアイデア的なものをアウトプットする行為と、
・かつてから思っていたことを理論立てて書く行為
の2つです。言うまでもなく後者は大変で、前者はなんかフレッシュ
だからぼくも見たばっかりの映画であるユージュアル・サスペクツとゴースト・ドッグについての感想を書きたかったりするんだけど、そっちもそっちで色々思い出しながら書いたり参考サイトを見返しながら書かないといけなかったりでほんの少しだけ頭を使うことになる。
昨日(ほとんど今日)は理論建てた、しかも批判的な文献を仕上げないといけなかったので、あまり同じような気力をnoteごときに割きたくはないですよね。
そこで今日は直情的なnoteが書きたい。ちょうど騎士団長殺しの1巻(上巻?)を読み終えたので2巻(下巻)を買いました。
そして読み始めた。するとどういうことだろう、登場する人々がこれまでぼくが知った既存のキャラクタのイメージで上書きされてしまった。こんな体験をしたのは初めてだ。
特に免色歩と秋川まりえについて……既存のイメージを植え付けられた上で話しを読んだりしたくはなかったのに、見事に固定された。
ぼくは東野圭吾の真夏の方程式なんかを読んだ時も、絶対にタレントの顔なんて思い浮かべずに読もうと努力した。無意識を想起させないように努力することはすなわち「嫌でも思い出したくないことについて永遠に考え続ける」ことと同義であるため、そんなことすら気にしなくなるのが最大の対策だった。
ぼくは免色について世間の一般とされる(かどうかはわからないが)坂本龍一のようなイメージを一切もてなく、その世間がいだくイメージに対して「白髪だったら誰だっていいんじゃないのか?秋篠宮とか登坂淳一でもいいんじゃないか」と思ったほどだったが、今回に限ってはぼくが全く好きにはなれないYouTuberのイメージで固定されてしまった。
上記はあくまで免色であり、物語の進行上的にも好きじゃない媒体でイメージが固定されたことについてはそこまでのデメリットはないのが救いだ。
また秋川まりえについては決して嫌いではなくむしろ普段から歌を諸媒体にインポートしてごく個人的に聴いたりするぐらい好きながうるぐらが制服か何かを着て、澄まし顔で過ごしているイメージに固定された。
ぼくにはロリコンのけが無いのか(それはいいことなのかどうなのかわからない)、他にあまたいるロリっぽいYouTuberをあまり知らないことに起因するのかも知れない。思い出せて10人ぐらいだし、申し訳ないぐらい思い入れがない。
仮想の人々が偶像の形をまとって見えてしまうことには一長一短あり、むしろこの現象自体が物語に即しているとすら言えるのかも知れないが良いことなのか悪いのかぼくにはわからない。だけど騎士団長自体が似たような形をとって読者とか主役の目の前に現れることをぼくは思い出した……
別に村上春樹ファンに見て欲しいというものではないため、検索で当てはまらないようにしてあるという配慮について何らかの評価がいただければ幸いだ。