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『正欲』 言葉にした途端、カタチ作られてしまう【読書感想文】

こんばんは、こんにちは。

なんだか今日は何もやる気が起きなくって、
「はぁ〜今日は何もしたくないなぁ」って言う私に、
「何もやらなければ良いじゃん」って『全くもってその通りのこと』を言ってきた旦那。

そんな甘やかしを存分に受け、夜時間を全て読書に充てた結果、朝井リョウさんの『正欲』をやっと読了することが叶いました〜!笑



なんだかね、snsの中のみなさんが、こぞっておススメされていたので、読みたくなっちゃったんですよね。

ひとつ前に読んでいた『星の王子さま』や『汝、星のごとく』とは、打って変わって、間近にある感じで、心を軋ませながら読みました。

「わたしは、『まとも』に守られている人間なのだろうか。」なんて。

心に畳み掛けてくるような台詞も多くて、不意に涙が出てくるような、小説でした。

きょうは、『正欲』を読んだ感想を。
自分勝手に書いていきます。笑


多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。
〜自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

『正欲』

この本を読んだsnsの中の人たちも、みんな口を揃えて「”多様性”なんて、簡単に言えなくなる…。」と言っていた。

うーん。そうだなぁ…。

言葉を作ると、すごく簡単で、誰にでも伝わりやすくて、仲間を作れる。『言葉』ってすごく便利な道具。

だけど、カタチにしてしまったことで、不自由さも生まれる。
傷つけてしまうこともあるし、自分に返ってくることで、傷つくこともある。

人によって色やカタチが変わってしまうのが短所でもある。
トナリの人と必ずしも、同じ景色を見ることができないのが、悲しいところ。


『多様性』という言葉を作ってしまったがために、無理にカタチ作られてしまったものがあって、その枠にはめられて、身動きが取れなくなる。

果たして、『多様性』とは?みたいな。

誰も正しい形を知ることができない『多様性』だからこそ、誤解が生まれてすれ違ってしまう。


「理解してほしい人」
「理解してあげたい人」
「理解してほしくない人」



個人個人で生きているはずなのに、どこかで繋がりを持たされてしまう。

否が応でも、自分以外の、『違う人間』がいるんだ、と気づかされる。

それは、恐怖でもあるし、幸福でもある。




繋がることで、自由になったり楽になったりする、こうゆう現象って何なんだろう。


本当は、繋がりがなくても生きていけるはず。
だけど、一度繋がりを持ってしまうと…。

きっと、麻薬みたいなものなんだろうな。

「私もう、ひとりで生きてた時間に戻れないかも」
これまで過ごしてきた時間も、飼い慣らすしかなかった寂しさも、恨みも僻みも何もかもが、一瞬、ひとつに混ざったような気がした。

『正欲』

結局、繋がりたくない人間はいないのではないかと思わされる。

「誰にもわからない」という人ほど、『分かり合える人』と出逢えた時の衝撃は大きく、生きる糧となっていく。
何にも変えられない、大切な繋がり。


繋がりあう空の下で同じことを考えている。
きっと、
そんな風に思うんだ。

本当に繋がりあえる人とは、恐らく直感でわかってしまう気がする。

会話がなくても、その空気ごと甘い蜜になる。
まるごと呑み込んで、ただその時間が喉の奥まで流れていって、お腹いっぱい満たされて、しあわせなときになるんだ。

その時間は、いつまでも保存できて、また思い出しては嬉しくなったり、寂しくなったりもする。


また次が早くくるようにと、願うばかり。


簡単じゃないよね。
だけど、またいつか繋がれると信じているから。


季節は巡って、またあの人と出逢ったときに帰ってきた。
もう一度やり直すことはできないけれど、ただあなたのトナリで甘い空気となって、漂っていきたい。


本当に理解することはできないかもしれないけれど、なんとなく、平行線で生きていくことはできるのかもしれない。

その呼吸とはすなわち、自分が想像し得なかった世界を否定せず、干渉せず、隣同士、ただ共に在るということだった。

『正欲』



読んでいて、段々辛くなるんだけれども、最後の光が見たくて、一気に読み進めてしまいました。


斜め読みした部分があるようで…ちょっと自信がないので、また読もう。


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