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世間という宗教について

日本人は世間という宗教を信じているという話は、いろいろな本で読んだことがある。
私自身も生粋の世間信者だと思っている。とにかく世間のいう普通からはみ出したくない。目立ちたくもないし、絶対に落ちこぼれだとか、痛いやつだと思われたくない。そういう思考で生きてきた。

私がこんな敬虔な信者になったのは、おそらく日本の義務教育のおかげなのだろう。学校という社会で生きていくには、この信仰はとても都合が良かった。当時の私にとって世界は家と学校だけだったし、居場所を確保するには周りに合わせることが全てだった。だって好き勝手しても居場所がなくならないのは、スクールカースト最上位の人間だけだったから。
「最近調子乗ってる」そんな理由で、誰かを仲間外れにした。その標的はなぜか当番制らしく、私も一時仲間外れにされた。
物心がついて間もない子どもが、そんな環境にいたら、周りの目を気にするようになるのは自然な自己防衛だと思う。
そして今となっては不幸なことだと思うが、私はそれなりに器用だった。ちゃんと周りに合わせることができたのだ。周りに合わせられない事情でもあれば、もっと他の生き方を工夫したのではないかと思ったりする。

世間を信じていれば、学校生活ではあまり生きづらさを感じずに済んだ。
しかし、大人になるにつれてなのか、時代の変化なのか、最近は世間を信じていても、生きやすいわけではない気がしている。

自分の悩みのほとんどが自己肯定感の低さに起因することに絶望することがあるのだが、私の自己肯定感を奪っているのは世間なのではないかと思った。それなりに楽しく毎日を過ごしているのに、このままではいけないのではないかと思ってしまう自分がいる。

本屋さんにいくと世間の求めるものがよく分かる。
やりたいことを見つける。やりがいのある仕事をする。好きなことをしてお金を稼ぐ。転職してキャリアアップする。国際感覚をもつ。SNSを活用する。IT系のスキルを身につける。
世間が求めるやるべきことはキリがないし、普通で凡庸ではいけないという脅迫だ。やりたいことがない自分や、別にやりがいを感じない仕事をしている自分が苦しくなる。

私が世間を気にしてたのは、普通でいるためだったはずなのに、いつの間にか世間に普通の自分を否定されている気になる。
そのくせ、やりたいことを見つけようとしたり、何かに挑戦しようとしたら、痛いやつ認定して冷笑するんでしょう?出る杭であることを称賛しているのに、これから出ようとする杭はフルスイングで打たれるんでしょう?

私はもう世間を信仰し続けられないかもしれない。
世間は私が信じていたほど、正しくなかったのかもしれない。

世間の正しさは「みんな」に担保されていると思っていた。多くの人が良いと判断したのだからある程度正しいはずと。でもそれは間違っていたらしい。多くの人が良いと言っているから、良いと思っている人が、結構多そうだ。自分で判断していない人が多いんだ。何に並んでいるか分からないのに、とりあえず行列があるから並んでる、みたいな。みんなが判断をみんなに委ねあっている。
そう思って見ると、世間は物事の本質や、複雑な状況を見抜いていないように感じてしまう。そりゃそうか、本質なんて難しいことみんなで共有できるわけないもんね。だから、どう考えても悪い事だと分かりやすい不倫とかに興味があるんだろう。

世間という宗教に身を委ねるのはやめることにした。大人になったので、多少普通じゃないことをしても、仲間外れにはされないし。世間を信じるメリットが少なくなった。

この前テレビで、ROLANDが言っていた言葉が不意に刺さった。
「大事なのはどう思われるかより、どうありたいかだ」
そうだよね。
私はずっと、どう思われたいか、と、どうありたいか、を混同していた。
私は自分のものさしで物事を見られる人でありたい。
でも、そういう人だと思われたい気持ちが邪魔をして、世間のものさしに惑わされてきたんだ。

なんとなくもやもやしていたことが、少しだけすっきりした気がしたので、備忘録として。

少しだけ自分のことを好きになれた。

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