「声の言葉」と「書く言葉」、哲学と数学の誕生
「書く言葉」と「書」の登場は、劇の手法で言葉をあやつる「声の言葉」の記憶・思考法に大きな影響を与え論理的な思考法を徐々に生み出していくが、過渡期のそれは特殊な専門家があやつる異質なものでしかなかった。
●声の言葉と劇的表現
「文字」が発明された後も「書記」たちは統治のための「言葉」を綴り、エリートに属さない民衆とそれに語りかけるものたちは、「声の言葉」を使っていた。「声の言葉」は、聴衆を対象とし、周囲の環境に影響を受け、発するとすぐに消えてしまい、保存することができない。このため、「声の言葉」を記憶に残し、語りついでいくための工夫がこらされる。話し手と聞き手をつなぎとめておくために劇の手法を用い、韻律形式で、リズミカルに、表情と声の抑揚と身振りを使い、常套句と慣用句により理解を容易にし、冗長で多弁な言い回し、クライマックスに向かってすすむひとすじの長いプロットにより人々の記憶にきざみ経験を共有する。
●アルファベットと哲学・数学の誕生
紀元前8世紀頃、ギリシアにおける母音を持つ表音文字=アルファベットの発明が、「書く言葉」の大きな分岐点となる。24文字しか使わない母音を持つアルファベットは、それまで利用されていた表意文字や子音だけの表音文字に比べて「声の言葉」との対応をとりやすく、急速に識字の裾野を広げる。当初、アルファベットは、「声の言葉」を書き写し、記録して、再演するために使われる。やがて、「声の言葉」をより効果的に演出するために、「書かれた言葉」を加筆、修正するようになる。そして、語り手なしで、「書く言葉」だけで読むための「書」が密かに生まれ、浸透してゆく。
「書く言葉」の「書」のなかで語り手と聞き手は、外部の環境や、相手、集団から切り離されて孤立する。「書く言葉」で語りかけるために、外部の環境、抑揚・身振り・表情に代わる語彙・文法が、さらに理性的・批判的に訂正を繰り返し、その題材を項目に分け、反復を控え、曖昧な統一性のない記述を切り詰め、単一の表現に還元する論述的な記述手法が徐々に編み出される。
紀元前6~4世紀の古代ギリシアはなお、「声の言葉」から「書く言葉」への移行の過渡期であり、民衆を魅了する社会操作術としての弁論術、そのための筆記が政治や教育の場で活躍していたが、それと相対して理性・論理を追求するピタゴラス(紀元前582年~496年)やプラトン(紀元前427年~347年)などによる本格的な数学や哲学、その教育機関が誕生する。
「書く言葉」と「書」は、個人の記憶力と表現力を減衰させながら、論述的で一次元的な記述の変化とそれに伴う思考構造の変化が相互に影響しあい、近代的な思考法を、新たな哲学・数学・科学を、新たな発見と創造を生み出してゆく。
参考書籍:
[1] ウォルター・J・オング(1991), "声の文化と文字の文化", 桜井直文, 林仁正寛, 糟谷啓介訳, 藤原書店
[2] エリック・A・ハヴロク(1997), "プラトン序説", 村岡晋一訳, 新書館
[3] アンドレ・ルロワ=グーラン(1973), "身ぶりと言葉", 荒木亨訳, 新潮社
Andre Leroi-Gourhan(1964), "Le Geste et La Parole", Albin Michel
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