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ロールプレイングゲームという仮想世界

 ゲームは、人と人の知的コミュニケーションとイマジネーションのツールとして紀元前より深くかかわりを持ってきた。現代の花形、ロールプレイングゲームは、なぜヒトを魅了し続けるのだろうか。

ロールプレイングゲームという仮想世界

 最も古い時代の遊戯盤は紀元前3000年頃のものが残されている。例えば、古代エジプトで遊ばれたツタンカーメンのゲーム盤として有名な「セネト」は、1対1で対戦する双六、バックギャモンのルーツであり、相手の移動を阻むことができることから、偶然だけではない戦略性がプレイヤーを魅了した[1]。そして、5000年後。

 競争、運、模倣、眩暈、努力、技能習得[2]といった遊びの要素を備える総合遊戯ロール・プレイングゲーム(RPG)は、1974年に発売されたダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)を源流とする。ロール・プレイングを直訳すると「役割を演じる」となり、要するに「ごっこ遊び」を詳細にルール化したプラットフォーム上で遊ぶのがRPGだ。

D&Dでは、指輪物語(ロードオブザリング/1954年に大きく影響を受けたファンタジーの世界で戦士、僧侶、盗賊、魔法使いなどの職業、人間、エルフ、ドワーフなどの種族を選び、能力を決め、キャラクターの名前をつけてごっこが始まる。コンピュータゲームのコンピュータ側を担当するのがマスター、ごっこを演じるのがプレイヤーで、4,6,8,10面ダイスを降りながら確率表をもとにシナリオを進める。80年代アメリカの少年たちを夢中にさせ、ETやNetflixのストレンジャーシングスでその様子を垣間見ることができる。マスターは、シナリオから逸脱しすぎるとストーリーが破綻するため、プレイヤーをシナリオ上で動くよう自然な誘導が必要となる。どれだけ役になりきって演じられるかはプレイヤーの妄想力しだいだが、「神と英霊の名に命じるイグゾーダス」などと唱えるところを恥ずかしがり屋の日本人は「左のモンスターにファイアーアロー(炎の矢)をキャスト(詠唱)」という具合に淡々と進めることとなる。

 本家D&Dは日本の少年たちを魅了することはなかったが、ゲームマスターの煩雑な役割をコンピュータが行い、声を出して演じる必要がないコンピュータRPG(ゲーム機、スマホを含む)には夢中になった。古くはアメリカのウィザードリー(1981年)、ウルティマ(1981年)、日本ではドラゴンクエスト(1986年)、ファイナルファンタジー(1987年)が有名だ。ウィザードリー地下迷宮での探検を、ウルティマはファンタジー小説世界での生活を、ドラゴンクエストは漫画世界への参加を、ファイナルファンタジーは映画世界への参加を目指し、シナリオへの参加・インタラクションを提供した。

 コンピュータRPGは、フィクション世界の体験手段を読書からコンピュータ操作へと移行し、頭の中でのイマジネーション体験をディスプレイ描画との共体験へとシフトさせた。ソクラテスは、文字と書物を使うことを記憶力の喪失とし、書物を語り掛けても応えないもの、読者を選ばないものとして批判した。読書の物語がゲームの物語への急激に移行する過渡期に立つ現代、それを嘆き批判するのではなく、何を失い、何を得ることになるのかを見極める視点が必要となる

参考書籍:
[1] 増川宏一(2006), "遊戯 :その歴史と研究の歩み", 法政大学出版局
[2] ロジェ・カイヨワ(1973), "遊びと人間", 多田道太郎・塚崎幹夫訳, 講談社学術文庫


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