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本を読むこと。 ~ 武士道と侍ブルー~ 

サッカーワールドカップ、見ていますか?
私は普段はあまりサッカーを見ないのですが、4年に1回のW杯だけは見ています。

さて、サッカー日本代表は侍ブルーの愛称で親しまれていますが、日本代表を表すのにはよく「侍(さむらい)」が用いられます。

侍、ちょんまげ。

そんな時代があったことは周知の事実ですが、いまの日本人も「侍」、その気概を持ち合わせているのでしょうか?

今日は新渡戸稲造の著書「武士道」をご紹介しながら、日本に古くから根付く「侍の精神」について考えてみたいと思います。

武士道とは何か

「武士道は、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らない、日本の土壌に固有の華である、それは今なお私たちの心の中にあって、力と美を兼ね揃えた生きた対象である」と新渡戸は説きました。

武士道は封建制度の中で産まれ、その母である封建制度よりも永く生き延びて、人倫の道の有り様を照らし続けています。

武士道はヨーロッパにに根付く「騎士道の規律」であり、「高い身分に伴う義務」、「武士が守るべきものとして位置づけられる道徳的作法」のことをいいます。

武士道を貫く光輝く支柱「義」

侍にとって裏取引や不正な行いないほど忌まわしいものはありません。悪辣な陰謀や嘘が策謀としてまかり通っていた時代に、素直で正直な、男らしい徳行はもっとも光り輝く宝の珠であったと新渡戸はいいます。

現在の日本を代表する「侍」もフェアなプレーや精神を求められており、世界的にも日本選手の「義」は称賛されているかと思います。

もうひとつ大切な「義」は「義理」です。
今ではその意味を失っているかに見えますが「義理」は理性に従って正しい行動を起こすための道徳上の「義務」を指します。

「義務」が煩わしく感ぜられるときには「正義の道理」が私たちの怠惰を防ぐように「親方」となり、手に鞭をもって怠け者になすべきことを遂行させようとします。

このように本来私たちは自分の中に「義理」を持って「行動」を起こさなければならず、現代の「義理」が示すように世論や社会が期待する果たすべき義務や義務感によって行動を起こすことではないのです。

つまり「愛」や「愛情」を動機にして、正義の道理に従って行動を起こさなければならない義務こそ「義理」ということになります。

肚を鍛錬し「勇」を得る

勇気は「義」を持って発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないとされました。

孔子は論語の中で「義を見てせざるは勇なきけり」と勇気を定義づけており、これは「勇気とは正しいことをすることである」と言い直すことができます。

勇気に鍛錬は苦役や肝試しなど厳しい環境での過酷な訓練を思い浮かべてしまいますが、実際、侍の子や師弟はそのような苛烈な手段で鍛錬を行っていました。

現代においてはそのような手段を用いることはコンプライアンス的には厳しいものがり、スポーツの現場においてもそのような手段を用いての「訓練」はパワハラとされ、厳しく罰せられます。

訓練の仕方はさもあれ、大切なのは「勇気」の持つ概念です。

勇気の精神的側面は落ち着きです。

どんな状況でも心を鎮め、冷静に周りを観察すること、その「余裕」を持つことであり、余裕はその人の「大きさ」の何よりの証拠となるものだといいます。

それは圧しつぶされず、混乱せず、いつもより多くのものを受け入れる余地をもたらします。

「勇気」を鍛えることは「余裕」を生み出すことです。

様々な環境に身をおき、感情のまま行動を起こすのではなく、冷静に自分の感情を眺めながら、何が正しい行動なのかを見極めこと、その繰り返しが、武士道的「勇気」の鍛え方なのだと思います。

武士は何を学び、どう己を磨いたのか

武士道の成すものはこれまでに説明した「義」「勇」の他、「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」がありますが、武士の訓育にあたって第一に必要とされたのはその「品性」を高めることであったと言われます。

武士の教育においては「美」の価値を認めるということが重要な役割を果たしており、それらは教養ある人にとっては不可欠であるが、サムライの訓育にあたっては本質を成すものというよりは、むしろ外見をなすものであったといいます。

武士道の枠組を支えている要の3つの脚は「知・仁・勇」といわれ、それぞれ知恵、慈悲、勇気を表しています。

サムライは基本的に「行動の人」であり、学問は重んじられていましたが、それは品性や確立するための実践的な補助手段であったとされています。

つまりスポーツ選手においてもその品性を磨くには「学問」が不可欠であり、運動だけできれば良いというわけではないのです。

思い出すのはあるオリンピック選手が代表のユニフォームを着崩して、その品性が話題となり、その会見において「うるせーな」と発してしまったことでしょうか。

彼はやはり日本を代表する「侍」にはなれていなかったといえます。

武士道の訓育において、その教科とされたのは主に剣術、弓術、柔術、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、そして歴史によって構成されています。

これらを見てみますと現代において「STEM(Science, Technology, Engineering, Mathematics)」教育が重視される未来はいかがなものか、武士道では算術ももちろん学ぶべきものであったとされていますが、武士道においては「損得勘定」は二の次、むしろ損失を選ぶことのほうが「徳」であったといえます。

「文臣銭を愛し、武臣命を惜しむ」

論理や経済が重要視され、人よりも「損せず、利益を得る」ことの競争を強いられる現代において、日本人のアイデンティティの根幹といえる「武士道」が失われる未来はそう遠くないのかもしれません。

まとめ

以上、簡単ですが、新渡戸稲造の著書「武士道」をご紹介しながら、「侍」の生き方について考えてきましたが、スポーツを愛し、スポーツに関わるものとしては、なかなか考えさせられるものがありました。

武士道が間違った方向にすすみ、パワハラや暴力の温床になってしまったスポーツの暗い部分を否定はしません。
しかしながら「自由」を履き違え、品性を欠く態度もまたスポーツにおいては否定されるべきものです。

日本代表はそのまま日本人の代表です。
「侍」の愛称を使うのであればその「侍」の根幹たる「武士道」の精神を正しく理解し、教育やスポーツ指導を考えていく必要があります。

ともあれ、日本のスポーツにおける代表選手は「武士道」を体現しており、だからこそ私たちも純粋に応援したくなるのだと思います。

彼らが世界で戦う姿、その精神、勇気が私たちの中にある「武士道」を奮い起こしているのかもしれません

今日はいよいよベスト8への挑戦、「新しい景色」への挑戦です。

頑張れ、侍ブルー!!

最後までお読みいただきありがとうございました。

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