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特攻隊と言われた祖母

8月6日に 祖母の涙と被曝3世の私 という記事を書いた。

書いてから、自分が被爆3世であることをこれまであまり意識してこなかったことに気がついた。

そうか。私は被爆3世なんだ。

と改めて思った。

翌日、私はいつものようにラジオを聴いていた。
そこで被爆3世で大学講師をされている桐谷多恵子さんの話を聞いた。
桐谷さんは被爆者の聞き取り調査を行い、研究をされている。

そこで、被爆3世にも温度差がある、と話されていた。

被爆3世だから何かしなくてはいけない、ということでは無い。
でも被爆3世だからできることがあるのではないか、と思った。

誰しもが平和を願っているのに、世界から無くなる事のない戦争や紛争、内戦。

何ができるかは分からないけど、これから少しずつ探してみたい。


祖母が戦争について語ったのは1度きりだった。
しかし祖母の死後、遺品の中からノートや原稿用紙が出てきた。

それらは鉛筆で、辿々しい文章で書かれている。

その中に1つだけ戦時中、大久野島で働いていた頃のメモが出てきた。

8月15日は終戦の日。
こんな記事ばかり、と思われるかもしれないが(思われてもいい)そのメモを記しておきたいと思う。

祖母の手書きのメモ


※祖母のメモをそのまま書き写しているため、読みにくいところがあります。


まさかの体験

午後の仕事始めに、黄燐塔に行った。(昨日受け入れた『ちび』の)製造年月日を見たら数を数え、帳面に書くため。

丸窓を開けると、小鳥は生きてゐた。
鍵を開け戸を開き、中の臭い空気を入れかえるのに二、三分程。中に入らず、外で待ち、それから入る。
入口の方から見てゆき、目が、慣れたら、奥の方へ行くつもりで、下の方から、年月日を見ていたら、右側の頭に、強いゴーンと言ふ痛みが走った。
それぎり、気を失った。
気がついたら、守衛さん、工員長、准慰、衛生員の人々の顔が、ずらりとのぞき込んでゐた。

一番新しい、一番強い毒ガス『ちび』が、自然発火し、私は、上に置いてあった枕木二間物が落ち、うつぶせに気絶したのだそうだ。
うつぶせに成って、ゐたので、助かった、と、言われた。
皆んなが、それぞれ、手や、足等、一生懸命さすって下さったそうだ。
血が止まるやうに、頭には包帯が巻いてあった。
黄燐塔の、天井には、黒輪が出来てゐた。
丸窓の小鳥も死んでゐた。

出口で、あった事と、うつぶせに、たおれた事が、幸せであった。
体がだるく、頭が、少し痛いぐらいで、その日は、定時に、帰った。

それから當分日、はち巻で、みんなに特攻隊と、言われ乍ら、きづの手当を三日程、久野島陸地病院でしてもらい、それからは、衛生室で包帯をかえてもらい休まず通った。


大久野島は毒ガスの島とも呼ばれており、昭和4年から昭和20年まで太平洋戦争に使用するための毒性のガスが大日本帝国陸軍によって秘密裏に製造されていた。
昭和初期は「地図から消された島」となっていた。
現在は国民休暇村ができ観光地となっている。島にはたくさんの野生のウサギが生息し「ウサギの島」とも呼ばれている。

黄燐塔は造られた兵器を保管する場所だったのだろう。
『丸窓を開けると、小鳥は生きてゐた。』
これは炭鉱のカナリヤ、ならぬ毒ガス島の小鳥だ。
この小鳥が生きていれば安全だから中に入ってよし、と言うことだったのだろう。

そして祖母が気絶から目覚め、見た黄燐塔は
天井には、黒輪が出来てゐた。丸窓の小鳥も死んでゐた。』
とある。
祖母がうつ伏せに倒れていなかったら?
黄燐塔の奥に入ってから『ちび』が自然発火していたら?
毎日を死と隣り合わせで働いていた祖母。
母も私もこの世にはいなかったかも知れない。
命は偶然の重なりでできている。

『それから當分日、はち巻で、みんなに特攻隊と、言われ乍ら』
頭に包帯を巻いているからみんなに特攻隊、と言われた祖母。
この部分を読んで私は何とも言えない気分になった。
そこには負傷した祖母に「特攻隊みたいでカッコいいよ。」と言いうニュアンスがあったのだろうか。
しかし特攻隊のことを思うと、私は切なくて複雑な気分になる。
この気持ちをどのように表現すればいいのか、私の持つ語彙力では上手く表現ができない。
とにかく、胸の中がザワザワ、ザワザワする。

そして祖母はこの後、被曝する。


叔母(母の妹)によると祖母は晩年、自分史を書きたいと言っていたそうだ。
そのためか、老人大学と言うものに通っていた。

好奇心が旺盛で何事にも前向きだった祖母。
運転免許(当時の女性で免許を持っていた人は珍しかった)、通信士、洋裁、他にも色んな資格を持っていた。

母によると祖母に作れなかったものは無いらしく、カルピスの原液や洋服は勿論、コートまで作っていた。

祖母が母に作ったAラインコートはカッコよくて、古着が好きだった私は一目惚れし、母から譲り受けた。
高校の制服にサボ(木をくり抜いて作ったスウェーデンの木製のサンダル)を履き、祖母の作ったAラインコートを上に羽織る。
この格好で通学をして、私はオシャレ風を吹かせていた。
(と思っているのは自分だけだけど。)


祖母の拙い文章は、客観的にみれば決して上手なものではないだろう。
でも私には、そんな文章から、その字から、祖母の息遣いが聞こえてくる。
私はそれを時々取り出して読み返す。
(母も叔母達もなぜか要らないと言ったので、私がもらった。)

読んでいると、大好きだった祖母が横にいるような気がする。

でもそこにあるのは、私の知らない祖母の姿だ。

祖母が書きたかった自分史を、私はいつか何らかの形にしたいと思っている。
でも、それにはまだまだ程遠い。
自分の書く力が足りない。



おばあちゃん、いつになるかは分からへんけど、待っててな。


最後に

祖母の涙と被爆3世の私。を記事で紹介してくださっためぐみティコさん、そしてルカさん。
私1人では止まらなかったであろう人の目にもこの記事を届けてくださり、感謝の気持ちでいっぱいです。
ありがとうございます。

めぐみティコさん「フミヱさん」
フミヱさんの笑顔と笑い声が、目の前にありありと浮かんできます。
お茶目なフミヱさんにこちらも自然と笑顔になる。


ルカさん「戦争を無くす方法〜沖縄おばぁの言葉」
平良とみさんの言葉。
できそうでできていないこと。私たちができる最も身近な平和への取り組み。


この記事はクロサキナオさんの企画参加記事です
#クロサキナオの2024AugustApex
https://note.com/kurosakina0/n/nbe3250227e3e



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