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祖母の涙と被爆3世の私。

祖母の涙を初めて見たのは小学校4年生の夏だった。

祖母は背が少し低くふくよかで、いつも白髪を紫色に染め、紫色のサングラスをかけて、時々タバコを吸い、よくパチンコ屋さんに行っていた。
性格は明るくおおらかで、面倒見がよく、手先が器用だった。
私が子供の頃、ピアノの発表会や入学式にレースの付いた可愛いワンピースを縫ってくれた。
いつだって太陽のように輝いているけど、その輝きは自分が光るためではなく、相手のことをしっかりと照らすためのもので、自分のことより他人を優先するような人だった。

小学校4年生の夏休み『おじいちゃんおばあちゃんに戦争体験の話を聞く』と言う宿題が出た。

その夏、私達家族と母の2人の妹家族、祖父母の総勢15人で旅行に行った。
宿はひと家族ひと部屋で予約をしていたが、夕食後はみんなでひとつの部屋に集まり、ゲームをしたり、男の子達は走り回ったりしていた。

この旅行が終わると祖母とゆっくり話せる時間はない。祖母に話を聞くなら今日しかない。
そう思った私は部屋の隅で少しモジモジしながら祖母に声をかけた。
「夏休みの宿題で、戦争の時の話をおじいちゃんおばあちゃんに聞かなあかんねん。だからおばあちゃんの戦争の時の話教えて欲しいねん。」

改まって祖母に話を聞くのは少し緊張したが、祖母がどんな気持ちになるのか深く考えていなかった。
宿題だから聞かないと。
そんな気持ちだった。

祖母は少し考えているようだった。
そして私の横に座り、話し始めた。
「むくみさんはおばあちゃんが広島に住んどったん知ってるじゃろ。」
「うん。」
「おばあちゃんが仕事に行きよる時じゃ。朝、広島市内に向かう電車に乗っとったら、急にピカッと光ってそのあとドーンと凄い音がして電車が止まったんじゃ。ピカドンじゃ。」
「・・・。」
「大きなきのこ雲ができて、何が起こったんじゃろうて分からんかった。」
「・・・。」
「その日は市内まで行かれんかったけん、何日かして友達が心配で市内まで行きよったんじゃ。」
「友達には会えたん?」
「友達には会えたけど、火傷で腕の皮膚が爛れて、ぶらんと垂れ下がってのう。
夏じゃけん暑いじゃろ。傷口は膿んで骨が見えて、そこにいっぱいウジがわくんじゃ。
そのウジが傷の上で動くけん、痒くて痒くてたまらんのじゃ。
友達が『お願いじゃからウジをとって欲しい。』って泣きながら叫ぶんじゃ。」

祖母の目からは大粒の涙が溢れていた。
それでも祖母は言葉を続けた。

「傷口に箸が触れたら痛いじゃろ。じゃから痛くないように、塗り箸で取ろうと思ったんじゃが、塗り箸では滑ってウジがつかめんのじゃ。
仕方なし、割り箸を使うしかないんじゃ。
傷口に触れんように、ウジだけを摘まもうと思うんじゃが、ウジが動くけんどうしても傷に割り箸が当たって、当たると『痛いーっ!!』で叫ぶんじゃ。
じゃからやめようとしたら『取ってほしい。』って泣いて頼むんじゃ。
見てるのが辛うて、泣きながら一生懸命ウジを取ったんじゃ。」

この後、私は祖母に何と声をかけたのか(多分何も言えなかった)、祖母がどうしたのか、何にも覚えていない。
すっぽりと記憶が抜け落ちている。
朧げに、従兄弟のわんぱく坊主が
「むくみさんがおばあちゃん泣かしたー!」
と言っていた気がする。


衝撃的な話の内容も去ることながら私は祖母の涙に動揺し、どうしていいのか分からなかった。
いつも太陽のように明るいおばあちゃんを泣かせてしまった。
そのことがショックで、なんで聞いてしまったのだろうと後悔した。
しかもみんなで旅行に来ている時に。

翌朝、祖母は何事もなかったようにいつもの明るい祖母だった。
だから私も、何も無かったように振る舞った。
でも心の中で思っていた。
「おばあちゃん、昨日はごめんね。」

そして夏休みが明け、2学期が始まった。
私は祖母が涙を流しながら語ってくれた話をしっかり発表しなければと思っていた。
しかし、聞いた内容についての作文を書くこともなく、みんなの前で発表する場もなく、先生から『戦争の話を聞いてきましたか?』と言う言葉さえもなかった。
そんな宿題など始めから無かったように毎日は過ぎていく。

私はモヤモヤしていた。
『先生、何で聞かへんの?おばあちゃんが泣きながらしてくれた戦争の話、何にも聞かへんの?』
大好きだった先生に腹がたった。
そしてひとり、大人に裏切られたような気分になっていた。

祖母に思い出したくもない過去を思い出させ、話すのも辛いことを話させてしまったあの時間は何だったのだろう。

私は納得がいかなかった。
軽い気持ちでそんな宿題を出さないで欲しい。
話す人がどんな気持になるのか考えほしい。
宿題を出したのなら、それを回収してほしい。

そんな話、聞かんでもよかったんちゃうの?
人の傷口をえぐるような事、する必要があったん?

私は悶々とその時の思いを消化できずにいた。

先生は子供達が戦争をしていた時代の話を聞き、そこで何かを感じてくれればと思っていたのかもしれない。
大人になった今はそれも分かる。

祖母が原爆の話をしたのはその一度きりだった。
あの時、祖母を辛い過去へと引き戻してしまったことは申し訳ないと思う。
でも、今となってはあの時に話を聞いておいて良かったと思っている。


祖母の最期は腹水が溜まり、お腹がパンパンに膨らんでいた。
そんな状態でも病院には行かない、と踏ん張っていた。
でもいよいよ自分で動けない程にまでなり、仕方なく入院をした。
最後の誕生日は病院のベッドで迎え、その数日後に亡くなった。

祖母の葬儀に見知らぬお婆さんが2人来ていた。
「あれ、誰?」
「あの人達は、大久野島でおばあちゃんと一緒に働いてた友達。」
広島からわざわざ祖母の葬儀に来てくれていた。

大久野島はかつて国が毒ガスを作っていた島だ。毒ガスの島とも呼ばれていた。
その事実がアメリカにバレないようにと地図から消された島でもある。
現在はうさぎの島として観光地になっている。
祖母は毒ガスの島で暗号や電報を打つ仕事をしていたらしい。


しばらくして祖母の遺品を整理している時に原爆手帳(被爆者健康手帳)が出てきた。

母に聞いた。
「おばあちゃん、原爆手帳持ってたん?」
「そうやで。」

母は知っていた。
でも私は知らなかった。

私は祖母が広島県で生まれ育ち、原爆が落とされた当時も広島県内に住んでいたことは知っていたが、被爆者として認定され、原爆手帳をもらっていることは知らなかった。

母は被爆2世で、私は被爆3世。

青春時代を大久野島(毒ガスの島)で働いていた祖母。
原爆で被爆していた祖母。
そんな祖母が自分の身を削って語ってくれた話。

人を照らす太陽のような祖母の人柄は、こんな辛い体験を乗り越えてきたらからこそだったのかもしれない。
(祖母はその前にもこの後にも、もっと辛い経験をしていたのだった。)

読んでくれる人はわずかでも、祖母が私のために語ってくれた話をここに残したい。

8月6日。
広島 原爆の日によせて。

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