傷痍軍人【ショート・ショート】
これは、上野の近くに住む友人から聞いた話だ。
1990年代の夏、彼はある日の夕方、上野公園の奥まった静かな場所で、奇妙な光景に出くわしたという。風もなく、むせ返るような熱気が漂う中、ひとりの男がいた。彼は古びた軍服をまとい、肩には色褪せた階級章がかろうじて残っていたが、その姿は時代遅れで、現代の風景にはそぐわない。顔には深く刻まれた皺、そして強烈な日差しのせいか、まるで焼け付いたような皮膚。片足を失ったように見え、古ぼけた松葉杖を頼りに立っていた。周りには人影もまばらで、彼の弾く楽器の音色だけが、夏の喧騒から切り離された静寂の中で、薄暗い空間にじわじわと響いていたという。
その音は、不思議と彼を引き寄せたが、どこか胸を締めつけるような寂しさを帯びていた。まるで遠い昔、忘れ去られた誰かの嘆きを奏でているかのように。だが、友人は一つの疑念を抑えられなかった。なぜ、こんな時代に、こんな男が公園で楽器を奏でているのか?「本当に戦争で負傷した者なのか?」その問いが頭をよぎったという。
かつて日本では、戦後に傷痍軍人を装う者たちがいたと聞いたことがあった。金銭目当てに戦争の犠牲者を装い、街角で寄付を募る者たち。友人は、男の汚れた軍服と、古びた包帯にどこか不自然さを感じていた。まるで、戦争の影を模倣しているように見え、現実感が薄かったというのだ。だが、同時にその姿に胸を痛めもした。彼は何かに取り憑かれたように、その場から離れられず、じっと男の姿を見つめ続けた。
それから数年後、友人は同じような光景を別の場所でも目にしたという。夏祭りの喧騒を抜けた薄暗い路地裏で、またも片足を失った男がいた。今度は違う男だったが、同じように古びた軍服をまとい、ひっそりと楽器を奏でていた。幼かった頃の記憶が呼び起こされ、あの時と同じ胸の痛みが再び蘇ってきたという。何かが違う、しかし確かに存在している――そんな感覚に囚われたのだ。
「見るな」「関わるな」と大人たちはよく言っていた。まるでその男たちが、ただの見世物ではなく、もっと深いところにある不吉な象徴であるかのように。友人は、その言葉の裏に潜む暗い予感を感じ取っていた。あの男たちが本物か偽物かはもう問題ではなかった。彼らの存在自体が、社会に隠れた欺瞞や、何かもっと恐ろしいものを象徴しているように思えたという。
そして今でも、時折、友人は上野公園に足を運ぶ。もうあの男たちはいないはずだが、ふと気配を感じることがあるという。暑い夏の日、木々の陰から、どこかで楽器の音がかすかに聞こえてくるのだ。それは風の音に紛れるほど微かなもので、誰も気づかないようなものだが、彼にはわかるのだ。あの時見た光景が、現実であったのか、それとも過去の影だったのか。いまだに確信は持てないままでいる。
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