三日三晩悩み抜いた一文よりも風呂入って三分で書いたセリフの方がウケがいい(日記)

 ……みたいなことがあるから世の中ままならないんだよ!!
 日記を書く。

 何がままならないって昨日の日記のいいねが当社比伸びていて(ありがとうございます)、もっと考えて書いたはずの回はそうでもないことである。昨日のなんて移動中の電車の中で五分そこらの書き殴りなんだぞ。かけた時間の分だけ喜ばれるわけではない。ままならないものである。
 一生懸命考えてあれこれ工夫して読みやすく作ったものよりも、三分で考えた出オチの一文のほうが喜ばれる、みたいなことは以前から経験がある。でも出オチの一文を絶賛してくれた友人の賛辞は本物だし、たぶん三日三晩悩み抜いた時間があったからこそ出オチの一文が生み出せる時もある。
 そう思うことにしている。
 そう思わないとやってられるか!

 あとはたぶん、格好付けて何かを書くよりも、剥き出しの感情や感覚を人は喜ぶのかなという気がする。(それはそれで、容易に扇動されてしまいうるのでどうかなとも思うけれど。)
 私も他人が何か作品に狂って呻いている姿はすきだもの。だけど剥き出しにできないこと、直接的な言及は難しいことをいろんなものに包んで変換して出していくのも文章や物語の一側面ではないかなと思うし、難しい。だからあんまり『自分』を出したくないのも本当だし、しかし剥き出しの『自分』のほうがきっと面白いのも本当。
 ままならないものだ。

 話は変わって。
 ご家族の方に関するエントリを読むのがわりとすきだ。それはその人自身でもあるし、いろんな家族がいるんだなと興味深いからでもある。
 当たり前なのだがご家族をすきだという方もいれば嫌いだという方もいる。つい先ほど、たいへんなご高齢で往生されたおばあさまを大事に思う方のエントリを読んだ。とてもすてきだった。

 一方、私は祖母が嫌いである。
 私の祖母はぴったり100歳で死んだが、私の生涯で最も嫌いな女は間違いなくこの祖母である。嫌いなが100歳まで生きて死にやがっての話を、どうにかまとめたいなと常々思っているのだけれど、いまいち踏ん切りがつかないまま一周忌を過ぎてしまった。
 家族として嫌いというより、生き方の合わない女がたまたま血縁だった、と表した方がふさわしい。私は孫として意地悪やネグレクトをされたのでもなければ、保護監督者の立場から私の生き方にとやかく言われたのでもない。ただ彼女と私とは価値観が合わなかった。祖母が孫なるものをどう思っていたのか、ついぞ疑問である。ともすると「孫に優しい『祖母なるもの』でありたい」だけではないだろうか、見栄っ張りだから。
 そういう見栄っ張りはおそらく血縁者の中で誰よりも私がよく似ていて、ますます嫌になる。ああ嫌いである嫌いですとも。同族嫌悪だ。やっていられない。
 だけどなまじ20年ほどを一緒に暮らしたからエピソードに事欠かなくて、嫌いな箇所を挙げ始めるときりがない。一記事にまとめるのは無理そうなので、気が向いたときに「嫌いな女が100歳で死んだシリーズ」として書いていくつもりである。

 そしてたぶんうっかりそれを面白がっていただけた際には、それはそれで「また三日三晩悩んだものよりもウケがいい!」と言って凹む気がする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?