白い女・黒い女-04(小説)

***

 早央里の生まれた町はひどく寒くて雪深い土地だったから、昇降口で防寒ブーツを履いて外へ出ると、目に刺さるほど眩しかった。積雪に陽光が照り返して、視界がちかちかとする中に今日子がいた。余計にいつもコートが白く、ことさらに肌も白いから、ほくろのほかは、えくぼのわずかな影だけが彼女の輪郭みたいだった。おまけに今日子は、首の後ろの自分では見えない場所にあるほくろが気に食わないといって、隠せる限りいつもマフラーで隠していたから、いよいよえくぼとまつ毛の影だけが彼女を縁取るのだった。この頃のマフラーだけは、今日子にしては珍しく落ち着いた深緑と黒のタータンチェックだった。
 ややこしくならないの、と訊ねたら今日子は首をこてんと傾げた。
 どか雪の四月から半年以上経った年末で、早央里はチャコールグレーのマフラーへ首から顎先までをうずめ、紺色のダッフルコートのポケットに単語帳を弄びながら、今日子が靴を履き終えて追い付いてくるのを待っていた。期末テストの時期だとかで映画部は中止だったのか、たまたま今日子がさぼったのか、どちらだったか。ともかく、二か月か三か月もすれば(上手くいけば)この真っ白い雪の町から出ていこうという早央里は、短くとも向こう二年か三年は雪の中に居続ける予定の後輩と連れ立って、わずかに最寄り駅までの距離を歩いていた日だった。最寄り駅、といったって、雪道を一〇分も二〇分も歩くような土地だった。
「なにがです?」
「皆、紗織のほうを名前で呼ぶでしょ」
「はあ」
「今日子だけが『畑中先輩』で紛らわしくないのってこと」
「だって畑中はほかにいないですよね」
「……分かってて躱すんじゃない」
「あはは。ばれちゃったか」
 笑い声と同時にえくぼが現れる。今日子はなにが面白いのか両手をポケットへ突っ込みながら、校門の脇に積みあがっていた雪山の裾のあたりをえいやっと蹴飛ばした。彼女の細い脚では山も崩れやしなくって、裾野にわずかな吹雪が起きただけだった。雪崩が起きなくてよかった、とだけ早央里は思って駅への道に視線を戻す。三、四歩後ろに今日子の、雪を踏みしめる足音が聞こえている。
「カンタンですよ。私が先にさおり先輩だ、って思ったのが早央里先輩だったから。そっち先に呼んでるだけ」
「それだけ?」
「それだけ。ほかに何かあったほうがいいですか?」
「や、無くていいけど。要らないし」
「公平だと思うんですよね」
 きゅうに冷めた声色に思えた。
 なにか引っかかる感じがあって、早央里は思わず立ち止まる。今日子は歩きにくそうに(雪と氷と轍の道で歩きやすいも何もなかったけれど)数歩の距離を詰めてきて、けれど何事もなかったかのように早央里を見上げた。くるりと上向きのまつ毛、わずかに粉雪の付着したそれに瞳が縁どられて、ぱっちりとした一組の二重まぶたが早央里を見つめていたけれど、すでにそこには、早央里の覚えた違和感のかけらも残っていない。
「公平、って?」
「似合うとか、似合わないとか、そんなので呼び分けられるの不公平じゃないですか。早い者勝ちだったら別に。仕方ないでしょ」
「それでいったら、紗織のほうが四月生まれで私より早いけど」
「ええ、もう。私にとっては早央里先輩が先だったからいいんです。なんなんですか、先輩、自分の名前嫌いですか?」
「嫌いでは……」
 ない、と言いかけてもごもごと言い淀んだ。首元のマフラーを直す仕草で、誤魔化せていたかどうか分からない。かといって、本当は姓で呼ばれるほうが嫌いだなんて態々言うのも憚られて、早央里ははあっと息を吐き、白いのを確かめた。会話の隙を埋めるみたいに、寒いねとだけ小さく口にする。
「寒いですねえ」
 ふ、と今日子のふっくらした頬が持ち上がる。両頬にひとつずつ小さく影が差して、その陰影がやけに、一面眩しく白い帰路で彼女ひとりぶんをくっきりと際立たせた。
「私は」
 そのあとで、今日子がなんと言ったのだったか早央里は思い出せない。

***

 無心で食べているうち、ナポリタンの皿は空になっていた。真っ白なオーバルの上にケチャップののたうち回った模様だけが残っている。早央里は傍らにあったペーパーナプキンを一枚取り、自身の口元を拭う。何度も拭くことでようやく紙にオレンジ色が付着しなくなったので、きっと拭き取れたのだと思うことにした。
 いつの間にか、窓の外にちらついていた雪は止んでいたようで、大きな窓からは晴れ間も見えている。手首の時計は十三時十二分、休憩に入ったのが十二時半だからそろそろ戻らなくてはいけない。出したままだった手帳とスマホをカバンへ戻し、コートを羽織ったところで、空の皿の上にぬるりと人の陰が差した。
「先輩?」
 はた、とボタンにかけていた手を止める。早央里は首の骨が凍結してしまったみたいに、ぐぎぎぎとぎこちない動きで声の主のほうを見上げた。
「あ、やっぱり。早央里先輩」
 あはは、と声を上げた白いストールに白いスカート、ベージュのカットソーの白い女は、笑って初めて頬にえくぼを作り、それでようやく早央里はそれが誰なのかよく分かったのだ。首から下げた社員証には野暮ったいゴシック体で『花井』とだけ書かれている。

(続くつもりですがいったん一区切りです)

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