たまごやきで星が飛ぶ(エッセイ)

 手前味噌にはなってしまうが、実家の母はたまごやきが上手だ。
 実際「きっと上手なのだろうと思う」、くらいが認識としては正しい。
 なにしろ比較対象といったらスーパーの幕の内弁当と居酒屋の出汁巻き卵、それに私自身の自作がせいぜいだから、一般家庭の平均と比べた場合の評価までは下せない。売り物になっている前二つは当然の顔できっちりと巻かれており、最後の一つは不器用で不慣れゆえにたかが知れている。他人の家のたまごやきと並べて見比べる機会もそう無いものだし。
 けれど、高校時代に友人と並んで弁当を広げては「なかずちゃんのたまごやき、いつもきれいだね」と言われたことが二度や三度ではなかった。

 たしかに我が母の作は焦げ付くでもなく、かといって柔らかすぎず、崩れもせず、溶けて消える代物ではないけれど適度にふかふかで、飛び込んだらきっと寝心地のよい綿布団のような具合のたまごやきだ。
 書いているうち食べたくなってきた。見た目はともかく味は概ね近しいものが作れるので、ひとまず自作でしのいでおく。
 材料は卵のほかに砂糖、ひとつまみの塩、ちょっと牛乳。卵が2~3個に対して砂糖は大さじ1~2杯ほど。ほんのり甘めに、けれど基本は素材の味をいただくレシピである。何もかけずとも美味しいし、お好みで醤油を垂らしたり、あれば大根おろしを添えたり、焼き上がりにとろけるチーズなど乗せてもよい。焼きのりや刻みネギを一緒に巻いていた日もあった。
 たいていは家族の弁当に入れた後、残りが朝食のテーブルに並んでいた。白米が喉を通りにくい日でもそれだけはぺろりと食べられるので、とにかく朝が弱かった私は、たまごやきだけを二、三切れつまんで学校までダッシュなんてことをよくやっていた。

 その日の朝もダイニングへ出てくると、テーブルには見慣れたたまごやきが数切れ並んでいた。
 当時高校生だった私は、腫れぼったい目をこすりこすり二階の自室から階段を下りてきて、ダイニング奥のカウンターキッチンに立つ母へ欠伸交じりのおはようを言うと、ダイニング端の定位置に座った。対面式というと聞こえはいいけれど、私の実家ではカウンターが妙に高く、ガス台の正面には壁のような柱のような部分がせり出していて、台所に立つ人の様子は実際あまり見えない。いざ家を建ててみないと分からないものだ、と母が床掃除の必要面積と合わせて長年ぼやいている項目の一つだ。
 ともかく私は母の顔をほとんど見たような見ないような具合で朝食の席について、まだ起きてこない弟や髭剃りの最中だった父に先立って、その日のたまごやきを口へ運んだ。ぱくりと。
 瞬間、口元が爆発して吹き飛んだかと思った。

 反射的にぺっと吐き出して、目をぱちぱち、ぱち、と何度か瞬かせる。目の前がちかちかとして、星のような閃光が飛び散る錯覚に襲われた。
 そこでようやく、制服姿の私は自分の舌の上をびりびりさせる刺激物の正体に思い当たる。
「めっ…………ちゃくちゃ、しょっぱくない?」
「あ、やっぱりダメだった?」
 対面できない対面キッチンの奥から母の声がする。それも、言うに事欠いて「ダメだった?」とは。つまり、この人は自分が何をしたか分かった上でたまごやきを出したのだ。何をしたかは分かっていても、自分でその程度の甚だしさを理解してはいまい。実食してさえいれば人の食べられる代物ではないとすぐ分かるからだ。
 ようするに母は、塩と砂糖を間違えたのである。
 大さじ1~2とひとつまみを逆にして作ればどうなるか、想像に難くないと思う。その上で、おそらく想像よりもしょっぱい。塩辛いという言葉があるけれど、度を過ぎて濃度の高い塩気は辛味にも似た刺激をダイレクトに舌へ与えてくる。もはや兵器にも等しい暴力である。それが最初から塩ジャケの姿でもしているならばいざしらず、これはたまごやきである。ふわっふわの、つやつやとした金色の、見た目にはほんのりと甘そうな気さえするあのたまごやきである。なんという裏切りであろう。

 実は、母が塩と砂糖を間違えるのはこれが一度目ではない。このたまごやき事件から五年ほど遡って一度(やはりたまごやきだった)、さらにずっと遡って父との新婚生活時代に一度あったと聞いている。一度目のたまごやきの際は、昼休みに弁当を食べて初めておかしいと気付いたので、帰宅後に「なんか今日のたまごやきヘンな味だったよ」と報告し、事態が発覚した。暑さで弁当がやられたのかしら、なんて首を傾げた日を思い出し、私はぷるぷると震えながらキッチンカウンターの上を見た。
 私と父の弁当箱にきっちり二切れずつ、たまごやきが並んでいる。
「……さすがに今日はそれ残してくるからね」
 今から別のおかずを詰めてほしいとまでは頼めず、まだ痺れている舌でなんとかそれだけ言い残して家を出たのだった。

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