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掌編小説『仮にそれを原初と呼ぶなら』

 それは風に乗る蒲公英の綿毛のように、ふわりふわりと舞い降りて、無色の世界に私を宿した。

 目の前を覆っていた霧が形や色を成して、遥か遠い現世を模る。
 気がつけば私は、草原に膝をついた状態で前方をぼんやりと見ていた。
 柔らかな草が腿をなでる。くすぐったい。立ちあがりながら自分の体を見やると、なにも身に着けていないことがわかった。
 深呼吸をする。青い匂い。風が最後の仕上げとばかりに、生まれたての私の体を隅々まで拭きあげていく。
「やあ、いらっしゃい」
 声に驚いた私が振り向くと、すぐそばには男がひとり、立っていた。ベージュのスーツに身を包み、白いハットをかぶっている。
 なにしろ私は素っ裸だったので、本来であれば羞恥心から悲鳴のひとつもあげそうなものだが、なにしろ私は目覚めたばかりだったので、ただ、ぼんやりと声の主を見つめていた。
「こっちへおいで。着るものを渡そう」男が背を向ける。
 私はおとなしく彼についていくことにした。
 風が吹き、草がわらう。
 草原はどこまでも真っすぐ前方に向かって延びている。その両脇にそびえるのは、私の身長の何倍もある真っ白な堤だ。
「驚いたかい? それとも懐かしいかい?」
「驚いたけれど、懐かしくはないと思う。私は前にもここにきたことがあるの?」
「さあね。誰に対しても最初はそう質問することにしているんだ」
 男はそれきり黙って歩き続けた。私はその背中を追う。
 しばらく行くと、前方に白い点がいくつか見えてきた。近づくにつれそれは半円形の、家屋のようなものだとわかった。
 いつの間にか男がどこかに消えていた。案内役を見失ったことで私は焦ったが、すぐに男は帰ってきた。近くの建物から私が着る服を持ってきてくれたらしい。白い袋を受け取る。
 中にはワンピースと下着が入っていた。どちらの生地も白い布製なので、袋の中で形が曖昧になる。
「ひとまず、それを着るといい」
「ありがとう」
 男を待たせるのも申し訳ない気がして、私はその場でいそいそと衣服を身に着ける。サイズは、ちょうどいい。
「では、行きなさい」
 私は頷く。
 素直に従ったのは、超然とした男の口調によるものかもしれないし、そうするべきだと風が囁いたからかもしれない。
 そして私の毎日がはじまった。
 いや、毎日というのは正確ではないけれど。

 まるでスポットライトに照らされたように切り取られた世界。私たちはその中に静かに降り立つ。そして目的も理由もなく、日々を過去に溶かした。
 あるときはどこかの駅近くにあるゲームセンターで名前も知らない誰かと遊んだ。またあるときはどこかの山の頂上にあるテーマパークにいて、やはり名も知らぬ親子と園内を回った。
 矢のように時間が過ぎ去るというよりは、気がつけば時と場が変わっている。
 まるで夢を見ているかのように思えたが、私は一度も眠ったことがないので正直よくはわからない。それでも特に不便はなかった。不満も、疑問もなく、始まりが来れば終わりを迎える。それが当たり前だと思っていた。

 変化が起きたのは突然のことだった。
 いつものように唐突に始まったある日を過ごしていると、見知らぬ男の子と出くわした。
 そもそも〈見知らない〉という感情を抱いたことが初めてだったので、私は新鮮な驚きを覚えた。
 その日は私が通っている学校の校庭に駄菓子屋が着陸していた。小屋の周囲を囲む木造のデッキに、バラストの麻袋をたくさん積み上げている。小屋の上には大きく膨らんだ赤い気球がぷかりと浮かんでいた。
 私は男の子に声をかけた。
「中、気になるの?」
 男の子はものすごい速度で振り向いて、目を真ん丸に見開いた。
 それから私とお店を交互に二回往復したあと、ようやく口を開いた。
「うん。こんなの見るのは初めてだから」
 男の子は引き続き、お店の中を興味深そうに覗き込む。私の方は、そんな男の子を興味津々に眺めた。
「入ってみる?」
「えっ、いいの」
 私の提案に対して、男の子は目を輝かせた。私はなんだか得意な気分になって、男の子の手を引いて店の中に入った。
 すごいすごいと、興奮気味に店の中を見て回る男の子を落ち着かせる。それから、適当に選んだ駄菓子を買って店の外に出ると、デッキの端にふたり並んで腰掛けた。
「どこから来たの?」と私が聞くと、男の子は麩菓子をかじりながら「わかんない」と答えた。
 誰がどこから来たのかなどという興味や関心を持った自分に対して、新鮮な驚きを感じた。今すぐにでもあれこれと聞きたい気持ちをぐっと抑えて、私はチョコを口に放り込む。
「この学校に通ってるの? クラスは?」
「僕が通ってるのはここじゃない。うちの学校に似てるけど、ちょっと違うし」
「そっかあ」
 かみ合うようでかみ合わない会話が続いたが、それはそれで楽しかった。これまでに他の誰かと交わしたような、単調で乾燥した会話では味わえない質感めいたものを感じていた。
 気が済むまで話した後に「じゃあ、またね」と手を振った。別れは意外とあっさりしたものだった。
 それからしばらく無があって、次に意識が定まったときにはまた別の場所に立っていた。
 まあ、こんなもんか。と、石ころを蹴とばす。寂しさは、ほんの少しだけ。

 男の子との再会は、出会いと同じく唐突に訪れた。
 ある日、学校で授業を受けていると先生に廊下に呼び出された。聞けば、私を探す見知らぬ男の子が校舎をさまよっていたらしい。私はすぐに、その男の子が誰のことだか思い至った。
 二階にある音楽室前に駆けつけると。思案顔の音楽教員と、あたりをきょろきょろと見回す男の子がいた。また会えたことが嬉しかったのは言うまでもない。
 その後、やけに寛大な先生たちの計らいで、私は男の子を連れて校内を案内して回った。

 それからも幾度か、別れと再会を繰り返した。
 私は巡りくる明日の中で、彼に会うことができたらと思うようになっていた。
 誰かを想い、明日を待つ。これが生きるということなのかもしれない。

 しばらく会えない日々が続いた。
 いつの間にか身長は伸び、通う学校は変わっていた。それなりに楽しい時間を過ごしてはいても、心のどこかではまたあの子に会いたいと考えていた。

 ある日、いつもの場面転換と同時に足が自然と駅に向いた。私はなんとなく、【私】の終わりが近づいているのだと感じた。
 改札前で待っていると、そこに現れたのはやはりあの男の子だった。
 私に負けないくらい背が伸びている。けれど、丸い顔つきはあの頃のままだ。
「遅い」と私が当然の非難をぶつけると、あの子は——あなたは、申し訳なさそうにはにかんだ。
 それから二人で街を出て、誘われるようにして自然と海のある方に向かう。
 岬の突端にあるミュージアムを、二人でゆっくり見て回った。
 一通り観光を済ませたら、あとは帰るだけの小旅行。それでも私は十分に満たされていた。
 生きているという実感。それは、あなたが私に注いでくれたのだと思う。
 そしてまた、別れのときがきた。
 いつか見た真っ白な堤の上で、光のトンネルがあなたを呼ぶ。
 このときにはもう、今度こそ本当にお別れなんだろうなという確信が胸の中に芽生えていた。
「もう行かなきゃ」と、私はあなたを光の向こうに送り出す。
「そうだね。夢だからね」と、あなたは寂しげに微笑んだ。
 あなたが夢から覚めたなら、わたしはいずれ溶けるようにして、あなたの記憶から消えてしまうのだろう。そう思うとやり切れない気持ちになる。
 伸ばした右手が空をきる。あなたが最後に言った「またいつか」をつかめないまま。
 音もなく現れたいつかのスーツ姿の男が、私に歩み寄る。彼はやあと小さく手をあげて、その手をそのままポケットに突っ込んだ。私はその仕草に微かな躊躇いを感じた。
「夢を見たことがあるか」
「いいえ。これまで一度も」
 私は次になにを質問されるのか、なぜかわかった。
「夢を生きたことはあるか」
「——はい。たった一度だけ」
 嘘はつかない。
「なるほど」男は顔をしかめるようにして笑い、目を伏せた。「薄々わかっていたとは思うが、ここでの生は一度きり。出番がきて、それが終わってしまったなら、使い切りと言える存在の我々はそれきりなのさ」
「はい。理解しています」
「では、さようならだ」
 男は最後にもう一度、私に小さく手を振った。
「はい。さようなら」
 私の言葉は、私と一緒に無に溶けて、そのまま——。


***


このお話は『夢の中へ』をテーマにして書きました。

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