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神武天皇が存在する確率ーー東大出身の理学博士が素朴で難しい問いを物理の言葉で語るエッセイ「ミクロコスモスより」⑬

インターネット上であらゆる個人情報がやり取りされている今、特定の個人の実在性が疑わしくなるようなことはありません。数百年前ですら、一般庶民ならいざ知らず、ある程度知名度のある人は実在した証拠がいくつも残っているものです。
ところが、1000年以上前になってくると、事情は異なってきます。当人に関する歴史的証拠が少なく、さらに科学的な考え方が確立していないため、当人が実在していたとしても大いに脚色されている場合があります※1。そしてそれがもっともよく起こる場面は宗教上の重要人物について語るときです。キリスト教におけるイエスや、仏教における釈迦は本当に存在し、本当に数々の奇跡を起こしたのか、誰も確かな証拠を持っていません。
古代日本においては天皇が神格化されていたため、「天照大御神の子孫」と言われると、なおさら神話上の人物のように聞こえます。

このような「開祖」たちが実在したかどうか、本当のことは誰も分かりませんが、類似する事例はいくつか思い当たります。
一つは、いわゆる新興宗教の開祖です。多くの宗教では、開祖が何らかの「宗教的な体験」を経て悟りを開き、教えを説くに至ります。その「宗教的な体験」は往々にして科学的にはありえないような出来事を多く含みますが、開祖本人はたいがい、間違いなく実在する人物です。すなわち、宗教が関係している場合、当人にまつわる逸話がどれほど疑わしかったとしても、当人の実在性とは独立であるということが言えます。
もう一つは、周囲の人々の見解です。人々に畏怖される立場の人は、生活の詳細までは明かしません。実態が明かされないからこそ、周囲の人々の中では異常に神格化されたり誤っている噂が広まったりすることがあります。
例えば「ファウスト伝説」は、モデルとなったファウスト博士が存在すると言われています※2。しかし、錬金術の実験中に爆死するような人ですから、当然彼の噂には尾ひれ羽ひれがついていたことでしょう。
神武天皇、あるいは同様に実在が疑われるその後の天皇も、神話の元となった人物は存在したのかもしれません。そうだとしても、本人にまつわるエピソードの数々が本当かどうかは、また別の問題です。

※1 程度の差はあれど、最近の人であっても「誤った記録」が出回ることはあります。ベートーヴェンの一番弟子であったツェルニーはベートーヴェンについての回想を多く残していますが、その内容は虚偽を多く含むと言われています。また、ワーグナーは、ユダヤ系であることを理由にメンデルスゾーンを不当に批判し、その名声を落としたこともあります。
※2 ヨハン・ファウスト-Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88

「実在した確率」は定量的に評価できる?

さて、16代目の仁徳天皇からは史実で存在が確認されていますが、それ以前の天皇というのは、神話上の存在であり、実在したかどうかは不確実とされています。では、実在が不確実な歴史上の人物が、「実在した確率」を定量的に評価することはできるのでしょうか?


宮内庁 天皇系図より
https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/pdf/keizu-j.pdf


宮内庁 天皇系図より
https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/pdf/keizu-j.pdf


「確率」という概念は本来、偶然起こる事象の起こりやすさを定量化するものです。
つまり、「まったく同じ試行を複数回繰り返せる」ような事象について定義できるものです。そしてそれは、「頻度主義的確率」と「ベイズ主義的確率」の2つに区別することができます※3

※3 これらの確率論のさらに前段階として、「古典的な確率論」があります。
例えばサイコロであれば、理想的なサイコロ(つくりや投げ方に関わらず、面の出方に偏りが無いもの)のみを考え、目の出方が面数で等しく分配されると仮定します。
この過程が現実世界では成り立たないことを反映したものが頻度主義であり、さらに「頻度」ではうまく定義づけができないような事象にまで確率の概念を適用できるように解釈を改めたものがベイズ主義です。

頻度主義的確率

算数や数学の授業で出会うのは、前者の「頻度主義的確率」です。これは、「実際に何度も何度も試行したときにどのような結果が得られるか」を基にして確率を算出する立場。
たとえば、段ボール紙を貼り合わせてサイコロを自作し、それを投げる場合を考えると、サイコロは歪んでいるため1の目が出る確率は必ずしも1/6(古典的な確率論で期待される確率)にはなりません。しかし、サイコロがそれ以上歪まず、同じ方法で何度も繰り返し投げ続けることができると仮定すると、1の目が出た割合はある一定の値に収束していくことが期待されます(大数の法則)。
その収束していった先の値を、「1の目が出る確率」と決めれば、「段ボールで作ったサイコロで1の目が出る確率」が割り出せます。たとえ段ボール工作が得意だったとしても、サイコロを振ってみる前に確率を割り出すことはできません。あくまでア・ポステリオリ(後天的)に決まるものだという立場です。
ただし、現実的には試行回数を無限回にすることはできないため、集計されたデータのばらつきから「算出された確率の確からしさ」(信頼区間)を割り出します。

ベイズ主義的確率

一方の「ベイズ主義的確率」は、事象の確率が、実際の試行に先立ってア・プリオリ(先天的)に定義でき、試行によって追加の情報が得られると、その都度確率が更新される、という立場です。
段ボールで作ったサイコロを振ったときに1の目が出る確率は、面が6つあるということ以外に何も情報が無いため、1/6以外に定めようがありません(等確率の原理)。
「1の目が出る確率」をpとして、実際にサイコロをn回振ったときに1がy回出る確率はnが増えるとともに、二項分布 L = nCy p^y (1-p)^(n-y) に従います。観測された n および y(追加情報)から p を推定していく(様々な pに対してLを算出し、もっともLが大きくなるpが求めるべきpであるとする)ことで、pについての確率分布(どの p の値がどれくらい確からしいか)を得ることができ、それが「サイコロで1の目が出る確率と、それがどれくらい確からしいか」を与えます※4


頻度主義の立場では「神武天皇が存在した確率」という概念は無意味です。なぜなら、「神武天皇が存在する/しない」という事象は複数回試行して観測することが根本的に不可能だからです。一方ベイズ主義の立場では、「神武天皇が存在した確率」は意味を持つ概念です。そして、それは「存在した」「存在しなかった」の二者択一であるため※5、まったく情報が無い段階では50%です。

※4 筆者はベイズ主義的確率論に対する理解が浅いため、以下のサイトの例を参考にしました。
Frequentist vs Bayesian Statistics

https://towardsdatascience.com/frequentist-vs-bayesian-statistics-54a197db21
※5 ここでは議論を簡単にするためにこのように書きましたが、実際には二者択一とも限りません。例えば、「本来の意味での神武天皇は、後の人が勝手に作り出した架空の天皇である。一方、神武天皇が生きていた時代に存在したとある権力者が、死後になって神格化されるようになり、その人物の記録が後の神武天皇の記録と混同された」ということが史実であったとすると、「神武天皇は(記録を辿っていくと特定の実在する人物にたどり着くので)存在した」「神武天皇は(天皇としての実態は無かったため)存在しなかった」のいずれも正しいことになります。また、例えば「本来の意味での神武天皇は確かに存在していたが、何らかの理由で当時の記録が失われてしまい、後の人がその事実に気づかず勝手に架空の神武天皇を作り出して書物に残した」ということが史実であったとすると、「(人物としての)神武天皇は存在した」「(現代の書物に残されている)神武天皇は存在しなかった」のいずれも正しくなってしまいます。


ベイズ主義の立場で確率を考えてみる

ベイズ主義の立場では、少なくともア・プリオリな確率を定義することができるので、追加情報によってその確率を更新できれば、答えに近づけそうな気がします。
それでは、「追加情報」として何があれば良いのでしょうか。例えば本人直筆の書物や本人の製作物、周囲の人間の残した証言や記録、墓から得られたDNAなどの科学的データなどが挙げられます。
ベイズ主義の基本的な考え方は、いわゆる条件付確率についての次の関係性がベースにあります。今回のケースに当てはめれば、Yを「神武天皇が存在した確率」、Xを「神武天皇の存在に関する追加情報が正しい証拠である確率」としたときに、XからYを導けることになります※6


※6 ここからは、次の例をベースに考察しています。
ベイズ推定
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%A4%E3%82%BA%E6%8E%A8%E5%AE%9A#%E6%B3%95%E5%BB%B7

仮に、神武天皇の実在性に関わる証拠が1つだけあった場合、次の関係が成り立つことになります。



P(Y) は、先の例で見た、ア・プリオリに割り当てる確率で、情報が無い以上は50%にする以外ありません。P(X|Y) は100%とするのが自然でしょう。あとはP(X)さえ求めることができれば、「追加情報で更新されたあとの、神武天皇が実在した確率」P(Y|X)を算出することができます。

しかし、肝心のP(X)が曲者です。証拠が捏造か否かはどのようにして判断すればよいのでしょうか。例えば、最近の卑弥呼に関する発掘調査では、証拠になり得るものとして「顔料」が取り上げられました。同様に、仮に神武天皇の墓からある装飾品が見つかったとき、その装飾品が、神武天皇が実際に身に着けたものであるならば、神武天皇の実在の証拠になります。
「掘り出された装飾品が神武天皇の所有物であった」という事象をWとすると、次の関係によって「証拠が捏造ではない確率」P(X)を推定できます。



堂々巡りになる?

しかしここでも、P(W)の評価が再び問題になります。このように証拠の証拠を順次辿っていき、最終的に確からしさが確立されている事象にたどり着けば、巡り巡って神武天皇の実在確率を評価できるかもしれません。逆に、どのような証拠を辿って行ってもどこかで答えに窮してしまう場合は、最初のあてずっぽうの確率50%を更新することができません。



結論

実際に神武天皇に関する状況証拠がどれくらい集まっているのかは知りませんが、仮に確からしい(証拠の証拠を辿っていき確からしさが確立している事象にたどり着ける)証拠が何一つないとすると、神武天皇の実在確率は少なくとも2つの答えがあることになります。頻度主義的な立場では、そもそもそのような確率は概念として定義できません。ベイズ主義な立場では、何一つ情報が無いため、50%です。

ちなみに、自然の産物や神話上の人物をまつることの多い神社ですが、京都北部にある建勲神社には織田信長公がまつられています。実在したという確固たる証拠がある人物だからこそ、お詣りするにも少し複雑な気持ちになるのは私だけでしょうか。


プロフィール
小澤直也(おざわ・なおや)

1995年生まれ。博士(理学)。
東京大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。
現在も、とある研究室で研究を続ける。

7歳よりピアノを習い始め、現在も趣味として継続中。主にクラシック(古典派)や現代曲に興味があり、最近は作曲にも取り組む。


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