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「嘘物理学」考ーー東大出身の理学博士が素朴で難しい問いを物理の言葉で語るエッセイ「ミクロコスモスより」㉝

近頃、日本の物理界隈を(局所的に)震撼させているYouTuber、たむらかえ2さん。
現役の東大大学院の学生でありながら、日常の風景を独特の切り口で発信しておられる、期待の新星です。

そんな彼女のチャンネルですっかりお馴染みとなっているラジオ番組「月曜の夜ラジオ」には、「嘘物理学」という名物コーナーがあります。
我々が普段感じる何気ない疑問を、あたかも物理学に基づいて論理的に解説していると見せかけた、誤謬と欺瞞を楽しむコーナーです。
例えば、「あくびがうつるのはなぜ?」といった疑問には「あくびをするとその空間の酸素濃度が薄まり、近くにいる人が酸欠状態になるから」といった調子です。

人間は、自分よりも知識を持った人の発言には騙されやすいものです。
人があくびをするとその空間の酸素濃度がどれくらい低下し、酸素濃度がどのくらい減ったら人のあくびが誘発されるか、定量的な知識がない状態で、東大院生を名乗る人物の発言を聞いてしまうと、すぐにその説を反証することができず、勝手に「そういうことなのか」と納得してしまいがちです。

これが「あくびがうつる」に関することであればジョークで済みますが、「この水は健康に良い成分が入っています」のような話になると実被害が出てくるかもしれません。このような観点からも、科学的な話には科学的な態度で、懐疑的に受け取ることが重要でしょう。

科学的な考え方に馴染みのない人は、「科学的な用語や数値、計算が示されているから、きっと正しいのだろう」と短絡的に考えてしまうことがあります。
しかし、次の例のように、わざと誤った論理展開をすることで、誤った結論を導くことだってできます。

これは、数学における論理が演繹的であるからです。

ある命題の真偽は、真と分かっている別の命題からの推論から判定されます。ところが、これに基づくと、その推論の「階段」は永遠に終わらないことになってしまいます。
例えば「実数」を数学的に定義づけるための枠組みでは、いくつかの公理を前提としなければなりません。


実際に間違った公理・原理から間違った結論が、いかにもそれらしく導かれる様子を見てみましょう。


例1

温泉に入るのは気持ちが良い。
最近はサウナも流行している。
このように、人間は自分の体温よりも高い温度の環境に身を置くのが好きである。
したがって、ハワイへ赴き、火山の火口に身投げをすることが、人生最大の快感であるに違いない。


例2

ミルクボーイによれば、一見なんの用途かも分からないようなものであっても、それが何らかの役に立つ限りは「こんなんなんぼあっても良いですからね」である。
一方で、お店に売っている任意の商品は、誰かにとっては価値のあるものである。(そうでなければ売るはずがない)
すなわち、お店で購入可能な任意の物体は「こんなんなんぼあっても良い」のである。
それは例えば、観光地のお土産屋さんに売っている、何に使うかよくわからない旗でも同様である。
我々は全国各地を練り歩き、あの旗を収集するために生きていると言っても過言ではない。

例3

日本は「わび・さび」の国である。
それはつまり、「無」や「空」といった概念に価値を見出す文化である。
すなわち、すべての物の根底には「0」(無や空)がある。
当然ながら、その文化に基づいて作られた和菓子のカロリーも、「0」である。
したがって、和菓子はいくら食べても、カロリーは0である。


例4

とある昔の偉い人が、「人間は考える葦である」と言ったらしい。
葦とは、植物であるため、細胞の構造が動物である人間とは異なる。
それにも関わらず、人間が葦の類であるというのは、矛盾している。
よって背理法により、人間は考える葦ではない。
「人間は考える葦である」と宣ったのはフランスの有名な哲学者である。
しかし、彼のこの言説は、上の結論とは矛盾する。
したがって背理法により、パスカルなどという哲学者はそもそも存在しなかった。



このように、語彙の意味や文脈を誤ることにより、客観的事実に反する推論が書けてしまいます。
しかし、これらは誰が見ても誤りがすぐに指摘できるため、まだ(悪趣味な)冗談として成立する範疇でしょう。


それでは、最後に数学的に非自明なケースを見てみます。

例5

0を含む割り算は必ず0である。
さらに、割り算において、割る数と割られる数が等しければ答えは1である。
ここで
1-1=0
の両辺を0で割ると、左辺は0、右辺は1となるため、
0=1である。


これはアンサイクロペディアの1=2を彷彿とさせる例であり、だれが見てもそのおかしさに気づきますが、この世には「科学的な用語や数値、計算が示されているから、きっと正しいのだろう」という純真な心につけこみ、だまくらかす、まやかしの数字や計算にあふれているのです。




プロフィール
小澤直也(おざわ・なおや)

1995年生まれ。博士(理学)。
東京大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。
現在も、とある研究室で研究を続ける。

7歳よりピアノを習い始め、現在も趣味として継続中。主にクラシック(古典派)や現代曲に興味があり、最近は作曲にも取り組む。


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