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引き寄せの法則を数式であらわすと?ーー東大出身の理学博士が素朴で難しい問いを物理の言葉で語るエッセイ「ミクロコスモスより」⑧

A:最近、ハマっている本があってね。
B:なになに?
A:この、「引き寄せの法則」についてのものなんだけど。
B:なんか昔アイドルが言っていたのを聞いたなぁ……どういうものだっけ?
A:要は、「自分の考えていることが、現実になる」ってことで、いいことをたくさん考えていると、本当にいいことが起こるんだ!
B:ふーん、まあつまり「ポジティブ思考」ってこと?
A:違う違う、「ポジティブ思考」はただ思ってるだけでしょ?「引き寄せの法則」は、本当に現実世界に働きかけて、それが実現するんだ! 
これは科学的にも証明されてるんだよ!
B:ほぉ……
A:ポイントは、人間の思考も物理的実体があるってことなんだ※1。つまり、それは素粒子で表せて、量子力学に従うってこと※2。この世の物事もすべて量子力学に従うから、人間の思考とこの世における出来事は相互作用するわけだ※3。人間が何かを想起すると、それは物事が確定しているわけだから、いわば「観測」という行為だと見なせる※4。この世における出来事を観測すると、その状態は確定する。だから、良いことを思い浮かべると、それが実現するってわけだ。

※1 誤解なきように明言しておきますが、人物Aの発言には事実(少なくとも科学的に実証されている事柄)と異なる内容が含まれます。科学とは関係ありませんが、ウラジーミル・ナボコフの小説『青白い炎』でも、一人称話者が虚偽の話をし続け読者を惑わせるという、巧妙な手法が使われています。
※2 これは必ずしも完全に間違いとは言い切れません。実際、人間の思考は脳内の神経の電気的な活動によって生まれていると考えられており、その根源を辿れば素粒子同士の相互作用にたどり着きます。
※3 これはちょっと理解に苦しむ発言です。「人間の思考」や「この世における出来事」は物質還元的には素粒子に帰着するというだけで、素粒子そのものでは無いので、素粒子同士の議論がそのまま適用できるわけではありません。
※4 これは、量子力学の公理の一つである「測定」という行為についての知識を援用しています。古典力学の枠組みでは、観測可能量(物の位置や速度など、単位を持って測定できるもの)は、測定をするか否かによらずある特定の値を持っています。
身長160cmの人は、つねに身長を測り続けていなければ身長が160cmでなくなるわけではありません。量子力学の枠組みでは、観測可能量は測定した時点で確定し、測定前は確定していないと考えます。Aの発言で、「人が物事を想起すると確定する」とありますが、実際にはあくまで「脳内で確定している」だけで現実で確定しているわけではないので、これを測定の理論に結びつけるのは誤謬です。
例えば、「自分が億万長者になっている妄想」は出来ますが、鮮明に妄想できたからと言ってそれが現実になっているわけではありません。逆に、現実で実現しえないことを人間の脳で想起することはできます。「四角い三角形」や「ロバの暴力団」(哲学者・土屋賢二さんのエッセイによく登場するキャラクター(?))は、現実には存在しませんが、脳内に存在させることは出来ます。


B:まず、何を言っているか良くわからないんだけど……(Aに言葉を遮られる)※5
A:もうちょっと記号的に考えよう。人間の思考を「測定器M」、この世の出来事を「状態S」と名付けると、この世の出来事として実現するものは、次のような状態になるはずだ:

|M>=M|S>

もっと具体的な方がいいかな。例えば状態|S>はある人の財力を表すもので、演算子Mはその人が欲しいと願う財力だとしよう※6

B:Mは結局、その人の頭の中で思っていることだから、実現する状態|M>だって頭の中なんだよね? というか、思考が現実に作用しているという描像がまずよくわからないんだけど(再びAが遮って)
A:そこが重要なところなんだ! 思考が現実に作用することで、いわゆる「引き寄せ」が引き起こされるんだ※7
B:だから、その仕組みがどうなってるかが分からないんだってば。これだけだと、「夢と現実が区別できてない人」と一緒だよ。
A:それは別だよ !夢はあくまでも脳内だけの世界で、引き寄せは現実につながっているんだ※8
B:それはそうかもしれないけど……じゃあ、こうしよう。例えば、こう捉えることも可能だよね? つまり、人間の脳は騙されやすいので、良い未来を脳内で思い浮かべると、そのシナリオに沿った出来事を重点的に意識するようになる。そしてそのシナリオが現実にも起こったとき、「ああ、やっぱり思った通りだ」と納得し、余計に想像と現実のつながりに納得してしまう。そういう経験を重ねていくと、あたかも「思い浮かべた良いことが実現する」という架空の因果関係を学習してしまうんじゃないか?※9
A:なんてことをいうんだ! もう君とは話が通じない!


※5 すべての学問は、ヘーゲル的弁証法よろしく、議論によって進化していきます。人の意見を聞き入れずひたすら自説を展開していくだけになると、それは学問ではなく思想になります。世間で「哲学書」と呼ばれている物の中には、このようにただひたすら自説を展開しているだけのものがあります。これは「思想書」や「自己啓発書」の類であり、それを読解し鵜呑みにすることを「哲学をする」ことだと思ってしまってはいけないと思います。
科学においても、著名な科学者が言ったことがすべて真実であるということではなく、あくまで実証されるべき命題や仮説である、ということは意識しておく必要があります。
「真実」という言葉は危険な言葉で、何をもって「真実」であると言えるのかという、懐疑的な見方を忘れてしまうと、噓偽りに簡単に騙されてしまいます。
※6 これはあたかも議論を一般化したかのように見せながら、実は言葉を適当に記号に置き換えたに過ぎません。高尚な概念を持ち出したところで、MやSの定義を都合よく取ってしまえば、適当なことを言えてしまいます。なお、この式の読み方が分からない人のために、その解説を付します。これは長いため、注※6-2に回します。
※6-2 量子力学では、物理系の状態を、ベクトルを抽象化したもので表します。また、観測可能な物理量は行列を抽象化したもので表します。これを、通常のベクトルの記法で表しても良いのですが、より簡便な記法として「ブラ・ケット記法」というものが考案されています。量子力学の枠組みでは、物理量の測定によって得られる数値は、状態が取る物理量の期待値であると決められており、「ブラ・ケット」記法では物理量の記号をカッコで囲った形になるため、直感的に扱いやすくなっています。

「ブラ・ケット」記法


※7 ともすれば誤解されがちなことですが、科学の目的は一つ一つの「なぜ」に答えることで、センセーショナルなアイディアを誇示することではありません。科学においてセンセーショナルなアイディアは存在しますが、そこに至るまでの「なぜ」に答えられなければ、それは「思想」止まりです。
※8 とても良い出来事のことを「夢のような出来事」と表現することがありますが、寝ているときに見る夢はさほど良くないことが多いので、どちらかと言えば「将来の夢」の方の「夢」なのではないかと個人的には思います。そう思うと、「将来の夢」も「自分のイメージを現実にする」ことを目的としているので、ある意味「引き寄せの法則」に近いのではないでしょうか。「口に出していれば夢は叶う」のように表現すると説得力のあるように聴こえますが、実質は「引き寄せの法則」と同じことを言っているのかもしれません。
※9 間違った因果関係に騙されてしまうことは良くあります。これをユーモアたっぷりに表現した秀逸な動画「テレビパン」というものがあります。人間には理性があり、他の動物と違って考えることができるとはよく言ったものですが、それでもやはり動物的本能の方が圧倒的に強いということをよく実感できます。


あとがき
「引き寄せの法則」を検索すると、科学的根拠をまことしやかに説くサイトが出てきます。
事実と嘘(論理の飛躍)を交互に並べることで、あたかも論証しているかのように見せる巧妙な手法に感心してしまいますが、同時に情報リテラシーや科学リテラシーの重要性を強く感じます。
もともと科学に覚えのある人が、後に似非科学を信じ込んでしまうことも世の中にはありますが、今回の主人公もそのような人物と言えるでしょう。


プロフィール
小澤直也(おざわ・なおや)

1995年生まれ。博士(理学)。
東京大学理学部物理学科卒業、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻博士課程修了。
現在も、とある研究室で研究を続ける。

7歳よりピアノを習い始め、現在も趣味として継続中。主にクラシック(古典派)や現代曲に興味があり、最近は作曲にも取り組む。


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