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あいかわ双子は恋が下手・夏 中編


 俺はその日、名も知らないお姉さんのおっぱいを見ていた。


 長年のコンプレックスであるニキビ治療をするため近所のジジイがやっている皮膚科の門を叩きかけた俺は、どうせ通学用の定期があるのだからと思い直し、駅二つ先にある評判の良いスキンクリニックに通い始めた。

 もうすぐ夏休みというある土曜日、受診を終えて帰りの電車に乗り込むとちらほらと空席はあったが、俺はどうせ二駅だからと自分に言い訳をしながらドア付近に立った。どの席を選択しても、隣が異性になる事が避けられそうになかったからだ。この俺の言動が理解できない男とは、きっと一生分かり合えないだろう。

 痴漢冤罪が怖いから?隣に座ろうとした瞬間に嫌な顔をされたり、俺が座ったとたんにすぐに席を立たれた場合にショックを引きずるから?両方だよ、馬鹿野郎。

 とにかく座らないという選択をした俺は、扉からの日差しが強かったので車内の方に体を向けて立った。そして自然と目に入ったのは、向かいのベンチシートの端の席、ノースリーブのサマーニットからむっちむちの白い二の腕を見せている、推定Fカップの巨乳のお姉さん。いや、むしろ、お姉さんの巨乳。

 気が付くと俺の魂と視線は、電車が次の駅に着いて背後の扉が開くまでの一駅分、ほぼ無意識におっぱいに釘付けになっていた。正確に言うと、意識の一割くらいはむちむちと柔らかそうな二の腕とツヤサラの黒髪ロングヘアにも持っていかれていたが、どちらにしろ俺が気持ち悪い事に変わりはない。

 「次の停車駅は…」と、自宅の最寄り駅名を告げるアナウンスで我に返る。巨乳の持ち主がずっと手元のスマホに視線を落としていた事は、不幸中の幸いだ。角度的に顔はよく見えないが、大学生なのかOLなのか、中高生が背伸びをしてやるようなラメだらけのギラギラした化粧ではなく、赤い口紅が印象的でありつつも落ち着いた大人っぽさを感じさせる雰囲気の人だった。

 おっぱい以外を改めて見ると、お姉さんはかすかにではあるが、時折ベンチシートの端にある手すりの方に身をよじるようなおかしな動きをしている。今更ながら俺は、お姉さんの隣に座っているサラリーマン風の男が不自然な動きをしている事に気が付いた。自分の膝の上に乗せている大きめの黒いバッグを漁っているのだが、何度も同じポケットを探ったりと、その動きがあまりにもわざとらしい。

 更によくよく見てみると、サラリーマンの反対側には空間的な余裕があるというのにお姉さんの方にぴったりとくっついていて、そしてあろう事か、バッグを漁る仕草をしている最中、一回、また一回と、男のひじがお姉さんの横乳に当たっているのだった。

 痴漢だ。それも、言い逃れできる範囲に留める一番ひきょうなタイプ。

 こういう時は、どうするのが正解なのだろう。堂々と男の前に立って声をかけるべきなのか。いや、痴漢行為はもちろん嫌だが騒ぎになる事の方が苦痛だと感じる女性も居ると聞く。それに、マニアックな可能性として、この二人が痴漢プレイをしているという事だって考えられなくは無い。その場合、逆恨みをされて変なトラブルに発展するかもしれないじゃないか。

 そうだ、身動きが取れないようなラッシュ時ならいざ知らず、このお姉さんは本当に嫌なら席を立って隣の車両に移動すればいいはずだ。それをしないという事は、もしかしたら本当に大人の関係なのかもしれない。

 そんな斜め上の結論にたどり着きそうになったのは、結局、自分が骨無しチキン野郎であるという事実から目を背けるためだったと思う。しかし、そんな卑怯者の俺の視線が、水色のロングスカートに包まれたお姉さんの膝を捉えた。その膝は、小刻みに震えている。ああ、そうか、怖いんだ。怖いから立ち上がれないし、ただじっとこうして災難が去るのを待っていたんだー----そう思った瞬間、俺の足は自然と男の前に進んでいた。

 それは自分でも意外な行動で、そして全くの無策だった。堂々と注意する事が正解かなんて分からないし、そもそも見ず知らずの大人の男が相手じゃ俺だって怖い。身長だけは俺の方があるだろうが、自慢じゃないがこちとら猫背のヒョロガリなのだ。一人煮詰まった俺は、サラリーマンの目の前の手すりにつかまると、ただ黙って立ち尽くした。

 突如目の前に現れた長身のシルエットに、最初こそはビクリと肩を震わせたサラリーマンだったが、その相手がどうやら根暗そうなヒョロガリの若造で注意する勇気もなさそうだとすぐに察したのだろう、絵に描いたような逆切れで俺を睨んできた。俺は恐怖心から目の焦点をぼかすため、とっさに寄り目になった。一体何をやってるのか、自分でも分からない。あまりのシュールさに、思わず笑いが口から漏れる。

「クヒヒィ…ッ。」

 瞬間、男の顔に動揺の色が走った。我ながら、新種の都市伝説が誕生しそうな気持ち悪さだなと思った。多分、名前は『寄り目男』。引くに引けなくなった俺は、その寄り目を更に強調させ、ニタァと口元を歪めて最大級の笑顔を浮かべた。

「うわ…っ!!」

 小さい悲鳴を上げ、サラリーマンはカバンを抱きかかえながら席を立ち、半分抜けているらしい腰を必死に立たせながら隣の車両へと消えた。

 そして勝利の余韻に浸る間もなく、とっくに乗り過ごしていた事に気が付いた俺も、タイミングよく開いた扉に慌てて走った。


 ・・・・・


「…あ、あ、あ、そのそのその、あ、秋生あきお君が、ち…痴漢から助けてくれたんです!!」

 座禅終了後、広間に用意されていた昼食をご馳走になっていたその席で、普段着に着替え直した山口先輩から、我孫子あびこ先輩と知り合ったきっかけを尋ねられた。それは正に俺が知りたかった事で、そしてその真相を突き止められないまま今日に至っていたのだ。

 俺が答えられずにまごついていると、周囲の視線は我孫子先輩に向けられた。そしてもともと赤面症らしき我孫子先輩が耳まで真っ赤にして語った意外な話に、皆はもちろん俺も一緒に驚きの声を上げた。

「いや、何でお前まで驚いてるんだよ。」

 学級委員の鈴木が当然のツッコミを入れてきたが、俺の心の内はそれどころでは無かった。

 俺の人生が痴漢現場と交わった事など、アダルト動画以外ではあの時一回きりだ。つまり、我孫子先輩があの時のお姉さん?

 いや待て、確かに今日の保守的な服装ではよく分からないが、少しぽっちゃり気味のこの人はおそらく巨乳だろうし、二の腕もムッチムチだろう。色も白いし、この古風な三つ編みを解けばあのツヤサラロングヘアくらいの長さになりそうだ。

 だけどあのお姉さんの大人っぽい服装や真っ赤な口紅の印象は、とても目の前の人とは結び付かない。

 まるで俺の疑問を代弁するかのように、野次馬代表の目黒が我孫子先輩に対してそれはいつどこでそんなシチュエーションだったのかと矢継ぎ早に質問した。我孫子先輩はどもりつつ、目黒の質問に一つ一つ丁寧に答えた。

 そして話の流れで、先輩はある素人劇団に所属しているという事が分かった。小学生の頃、先輩の内向的な性格と吃音きつおんを心配した母親が、荒療治とばかりに入団させたのだという。どうやらあの姿は芝居用だったらしく、あの日は舞台の通し稽古の日だったが忘れ物を取りに自宅に向かっていたらしい。時間が無かったのでそのままでという判断だったが、普段着慣れない服装で恥ずかしく思っていた所に痴漢に遭遇したとの話だった。

 俺は思わず先輩の顔をまじまじと見つめた。記憶の中のお姉さんは手元のスマホに目線を落としていたので、そもそも顔はよく分からなかったのだ。だけど、まさか同じ高校の二年生だったなんて。

 俺に見つめられたノンフレームの眼鏡の奥のタレ目がかった瞳が、驚きからか大きく見開かれる。耳まで達していた赤色は、もはや首まで占領していた。このままでは頭から湯気が出るのではないかという勢いだったが、それは更に追加された目黒の不躾ぶしつけな質問であわや現実となりかけた。

「そうなんだ。で、我孫子先輩って相川秋生が好きなんですかぁ?」

 オーバーヒートしたらしい先輩は、「ぅぇえいっ!?」と謎の言葉を発し、手の甲まで真っ赤にして固まった。俺は俺で、俺の事が好きだとかいう一生耳にする予定の無かった言葉のインパクトに内臓が飛び出しそうになりとっさに両手で口を塞いだ。

「目黒ちゃん、先輩に失礼だよ。」

 緑川さんが目黒を止めに入り、ようやく話の流れが変わった。すると相河旭あいかわあさひが卓上の野菜天を取り分けながら、この騒動も昼食もそっちのけでずっと手元のノートにペンを走らせていた双子の姉に疑問を投げた。

朱里あかりはさっきから何をやってるんだ?」

「え…その…今日の山口先輩の貴重な袈裟けさ姿と私服姿を記録に残しておこうと思ってスケッチを…ほら、写真だと眩し過ぎて直視できないでしょ?」

 俺や相河旭にとってはもはや慣れっこになっている斜め上の言動に、目黒や緑川さんが首を捻る。当の山口先輩はまるで愛玩犬のイタズラを眺めるようにただニコニコと笑みを浮かべていて、その糸目は何を考えているのか全く読めない。

 突如、暑苦しい空気の中で野菜天と素麵を黙々とむさぼっていた鈴木が、胸の内を一切オブラートに包まずに放った。

「あーあ、お前ら皆してさあ、いちゃいちゃいちゃいちゃ。俺、全然面白く無いんですけどー。」

 その隣で、目黒がやたらと大きい自分の荷物を指さしながら愚痴った。

「私だって、お寺でチアダンスしてる動画をTikTokに上げたらウケると思って中学時代のチア衣装まで用意してきたのに、お坊さんにダメって言われたしつまんなーい!」 

 そのまま二人は足が痛いだの自分もモテたいだのとブウブウと文句を垂れ続けたが、ふいに食事を終えた相河旭が立ち上がり、とある人物の肩を叩くと二匹の豚の喧騒はぴたりと止んだ。

「すみません、少しだけ二人きりで話せませんか?鐘つき堂の裏手で待ってます。」

 相河旭がそう言った相手は、あまりにも意外な人物だった。あぜんとする周囲を他所に、一人颯爽と広間を去る旭。周りの皆も驚いたが、一番びっくりしたのはそう言われた我孫子先輩本人で、「え…?え…?わ、私…?」と、まるで全校放送で突然名指しされて校長室に呼ばれた生徒のようにぽかんとしている。

「え、なになに、どういう事?旭君って実はメガネっ子が好みとか?言ってくれたら私も眼鏡くらい全然するけど。」 

 目黒が相河旭の双子の姉に詰め寄ると、相河朱里ははっとしたような顔を浮かべてスケッチの手を止め、半分独り言のように呟いた。

「…あー…我孫子先輩って誰かに似てるなってずっと思ってたんだけど、そう言えば、旭の初恋の子に雰囲気が似てるかも…。」

 その言葉を聞いた俺の胸がなぜか一瞬ズキリと小さく傷み、それを察したかのように明らかにうきうきになった鈴木が残っていた素麺を一気に平らげた後、俺の肩に手を乗せ、言った。

「いやぁ~、楽しくなってまいりましたな!」

 鈴木の肩越し、中庭に面したガラスの引き戸の向こう、鐘つき堂に向かう相河旭の背中が見えた。俺の猫背とは全く違う堂々とした後ろ姿からは、モテる男のオーラが放たれているようだった。

 遠くから、ジージジーとアブラ蝉の鳴き声がこだまし、それはやがて飛び立って消えた。




↓後編につづく


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