かなめ君はろくでもない
最初はただ、このちょっと面白そうな男(ひと)と、少しだけお喋りを楽しもう、少しだけからかってやろうと、その程度の気持ちだった。
二年付き合った彼氏の束縛から逃げるように別れて三ヶ月、やっと上向きになってきた気持ちをもう少し盛り上げようと、きっかけを探していたそのタイミングでたまたま出会っただけだったのだ。
けれど打てば響くような小気味の良い会話と、そこから滲み出る見た目に反した博識さ、そしてポーカーフェイスが崩れた瞬間に見せる可愛い笑顔に、もう少しだけ会ってみよう、もう少しだけ一緒に居ようと、このデートもどきは気が付けば五回目になった。
二十代半ばの男女が逢瀬を繰り返しているというのに、身体の関係はおろか手を繋いだ事も無く、それは私が最初に「君のだらしない事をする女のリストに載る気は無いよ」と、はっきりと線引きをしたからで、だからこの見るからにいい加減そうな男が私とただ会って遊んでくれるのは彼のほんの気紛れに過ぎない。
美人の姉と比べられながら育ったからか、どこか恋愛に対して冷めているところがあると言われる私は、彼のような自由人が私に、いや、私で無くとも、誰か一人の女性に対して真摯な気持ちで一筋になると信じられるような愚かさも無く、かと言って、例えそれが仮初(かりそ)めでも彼が手に入るのなら傷付いてもいいと思える程に好きになっているわけでも無い。
きっと私達はお互い自己愛が強くて、その点ではある意味似ているのだろう。彼は女性と真面目に付き合うよりも自分の衝動を優先させたいタイプだし、私は私でその自信の無さ故に相手の方から盲目的に好きになってくれた人とでないと安心して恋愛が出来ない性格で、実際、そういう人としか付き合った事が無かった。
だから、かなめちゃんは、私が今まで「異性」として接してきた人達とはあまりに毛色が違い過ぎて、気が付けば私は身動きが取れなくなっていた。もはや、これから自分がどうしたいのかも分からない。
そして、それはどうやら向こうも同じらしい。
・・・・・
「ごめんごめん。だって、かなめちゃんが美術館に居るなんてさぁ。」
待ち合わせ場所で顔を合わせるなり思わず吹き出した事をまずお詫びして、それから改めておはようと挨拶をすると、相手は面倒臭そうに身体を起こした。
彼が背中を預けていたのは外灯や手すりでは無く、巨大なカボチャのオブジェ。隣接する大濠公園側から階段を登った先にある、この福岡市美術館の野外広場の象徴的な作品で、『草間彌生氏作・南瓜』だ。くすんだ黃色地に規則正しく並ぶ黒い水玉が、鮮烈な存在感を放っている。
触れる事が禁止されている作品では無いし、男子小学生が登っているのを見かける事もある。けれど彼の場合は子どもの悪ふざけとは違い、ただただ純粋に美術品に対して特別な価値を感じ取れず、単なる背もたれ程度に思っているのだろう。そんな人が、まさか私が冗談半分で言ったゴッホ展の誘いに乗るなんて。
その程度には好かれているのだと、少しは自惚れてもいいらしい。
「美術館に居るなんてって…あんたが誘ったんでしょうがよ。」
てっきりいつもの人を喰ったような笑みが返ってくるのかと思っていたのに、その横顔に浮かんでいたのは照れと拗(す)ねが入り混じったような表情で、この人でもこんな顔をするのかと少し意外で、そして大変愉快だった。
思わずニヤける私を鬱陶しそうに一瞥(いちべつ)し、ぷいと顔を逸らして一人ごちる彼。
「ここ、煙草吸えないのな。待ちくたびれた。」
この、おおよそ美術館とは無縁そうな、煙草の移り香が体臭と化している男と初めて出会ったのは、友人の結婚パーティーでだった。
思い思いに立食を楽しんでいたその貸切のレストランの中、新郎新婦の次に注目を集めていたのは、カジュアルなお祝いの場とは言え全くの普段着にまるで徹夜明けといった風貌の、そして、両サイドに火花を散らす二人の女性を携えた彼だった。やがて派手なワンピースを着た小柄な女の子が「かなめちゃんなんか大嫌い!」と、彼の名前らしきものを叫んで会場のレストランから飛び出すと、残ったスーツ姿の眼鏡美女も「サイッテー」と吐き捨てて離れたテーブルに去った。
その直後彼は、近くの椅子に腰掛けてその一部始終をかぶりつきで見ていた初対面の酔っ払いにーーーーーつまり私に、こう言ったのだ。
「…あんたさぁ、映画好き?今夜の先行レイトショー、チケットが一つ余ったわ。行かない?」
ただのからかいか、単なるやけっぱちか。何にしろ、彼のお誘いが本気でなかった事は、「何の映画?」と質問を返した私に対し、「お!?」と短い驚きの声を上げた事で分かった。
気があると思ったのだろう。映画のタイトルを告げる彼の声色は、少しだけ優越感を含んでいた。けれど私が興味があったのは、下半身のだらしなさそうな男にでは無く、映画の方だ。
「ああやっぱり、タランティーノの新作、面白そうだよね。博多駅でしょ?私も、ここに来る前に席を予約してるの。」
そうして深夜、映画館のロビーで再び居合わせた私を、彼は不思議そうに見つめて言った。
「あんた、もしかして一人なのか?」
一人で映画を観るのは私の趣味の一つだ。それに今時、珍しくも何ともないだろう。けれど、さすがにレイトショーに女一人というのが意外だったのか、作品のチョイスから男連れだと思い込んでいたのかもしれない。
「“かなめちゃん”と違って、最初から一人だよ。」
あの会場を飛び出していった女の子風に“ちゃん付け”で彼の名前を呼んだ、皮肉たっぷりの私の言葉に、彼は再び「お!?」という声を上げ愉快そうに笑った。
そして笑いながらこちらにスッと伸ばしてきた手が、発券したばかりの私のチケットをひょいと奪った。何事かとあっけに取られていると、彼はそれを自分のポケットに仕舞い、入れ違いで別のポケットから取り出した二枚のチケットを見せながら、こう言ったのだ。
「俺の隣の方が良い席だから、交換しといてやるよ。」
・・・・・
美術館中に広がる静まり返った独特の空間から一転、秋晴れの空の下、福岡市内でも指折りの規模を誇る大濠公園は、家族連れやランニング客達で賑わっていた。
かなめちゃんは絵に描いたような背伸びをして、これで退屈な絵画鑑賞の時間は終わりだと言わんばかりの笑顔で「煙草吸わして」と、公園の池沿いの道を歩き出す。
「吸わせてって…今時、県営クラスの公園なんてどこも禁煙じゃないの?」
そう言って並んで歩く私の胸中で、まさかそれでも吸うつもりかとそのマナーの悪さを咎める気持ちと、彼が見た目通りのそういう人間であってくれれば嫌いになれるのにという気持ち、それから、それと同時に失望させないで欲しいという気持ちがせめぎ合った。
けれど彼は待ちきれないと言った様子で、歩きながら内ポケットの煙草とライターを取り出す。そして私の不信感がピークに達した頃、美術館から歩いて直ぐの公園内の売店の横、池のほとりにポツンと佇む銀色の物体を指差した。
「ここ、この一個所だけ灰皿あるんだよ、知らない?まぁ、吸わないヤツは興味無いか。」
きちんと喫煙所で煙草を吸うかなめちゃんに安心したのと同時、その安心した自分に対して複雑な感情が湧き、満面の笑みでニコチン摂取をする彼から少し距離を取って池の縁に足を進めた。
水鳥達を眺めていると、私の直ぐ足下に二匹の鴨がぴょこりと水面から這い上がってきた。思わずテンションが上がり、声をかけながら振り返る。
「わぁ。ねー、かな…。」
名前を言い終わるより先、見覚えのある小柄な女の子の姿が目に飛び込んできた。
私やかなめちゃんより少し年下らしきその女の子は、自分に自信がなければ出来無いような身体のラインの分かる服装と派手なメイクで、実際、同性の私から見ても可愛かった。そしてその年頃にありがちな学生じみた熱量で、「何で既読無視するの!!」と怒鳴りながら一直線に彼の元に駆け寄る。
私は、つい先日まで楽しめていたはずの彼の修羅場を直視する事が出来ず、かなめちゃんがこの子にどんな顔をするのか、確かめるのが怖くてーーーーー気が付けば、無言のまま一人で歩き出していた。
良い機会だ、これで終わりにしよう。きっと今が引き際だ。
彼を知らなかった頃の、いつも通りの私に戻るだけ。
別に本気で好きだったわけじゃない。ああいう世界の人だと分かった上で、好奇心と物珍しさで近付いただけだ。そして充分楽しかったし、これから彼とどうなりたいと願っているわけでも無い。
かなめちゃんなんてろくでもない男は、忘れてしまえばいい。
家族連れやカップル達の合間を縫うように、ゆっくりと池沿いの道を進むと、やがてボート小屋の手前に出た。地下鉄に乗るには行き過ぎた事に気付き、立ち止まって踵(きびす)を返すると、驚く事に、焦った様子でこちらに走ってくるかなめちゃんの姿があった。
再びボート小屋の方に振り返り、彼をきっぱりと拒絶するように背中を向けて走り出した。
けれど走り出して直ぐに通りかかったボート小屋と花壇の間、エキゾチックな顔立ちのモデル級の美女が、すらりとした長身の眼鏡の彼氏にキスをしている場面に出くわし、思わず私の足が止まった。まるで映画のワンシーンのようだ。
ああ、こんな桁違いの美人に生まれていれば、そりゃあ人前でキスだってするだろうし、私みたいにデート相手が他の女の子と修羅場を始めても尻尾を巻いて逃げ出さないだろう。
見ず知らずのその美女が去って行く後ろ姿を呆然と眺めていると、追いついたかなめちゃんが「おい!」と私の右手首を引いた。
けれど私は、それを必死に振りほどく。
「私の事はもういいよ、あの子のところに戻ってあげればいいじゃん。」
「え…何、あんた…まさか妬いてんの!?」
「はぁ?自惚れるのもいい加減にしなよ。価値観が違いすぎるんだって。私はズルズルと身体の関係を持つつもりもないし、かと言って、不誠実な人と付き合って泣きを見たいとも望んでない。じゃあ、それぞれ求める相手と一緒に居た方がいいに決まってるじゃん。」
そこまで一気に言って、周囲の喧噪に我に返った。小さな女の子を連れた父親が、気まずそうにこちらを見ている。
改めて地下鉄に向かって歩き出したものの、かなめちゃんは性懲りも無くついてくる。
大濠公園を出て直ぐの信号は赤だった。信号待ちの間、頑なに車道から視線を外さない私の横で、かなめちゃんが言った。
「…俺さぁ、何か悪い事したわけじゃ無いと思うんだけど。何で怒るわけ?」
「そうだね、楽しかったし。色々と付き合ってくれてありがとう。それじゃあね。」
「怒るなって。別に、俺があんたの事を取って喰おうってわけじゃ無いし。」
「取って喰う…?そう言えば、私、決めてた事があるんだよね。」
車道の信号が青から黄色、黄色から矢印に切り替わり、待ってましたとばかりに右折車が進む。それを呆然と眺めつつ、もうすぐ歩道が青になるなと考えながら言葉を続けた。
「もし、私がかなめちゃんと寝る事があるなら、それは私が心を許した時でも、ましてや雰囲気に飲まれた時でも無いって。私がしたい時にするの。で、私の気が済んだらそれでお終いって。」
もちろんそれは、半分冗談みたいなものだ。
けれど、初めて一緒に映画を観たあの日、帰り道で語り合った彼の感想が面白くて、夜寝る前にかなめちゃんの顔が浮かんだ時、ああいうタイプには決して情を移すまい、逆に利用してやるくらいの精神で接してやればいいと、そう自分に言い聞かせたのだ。
信号が青になり、足を進めながらちらりと彼の顔を覗いた。
するとそこにあったのは、今朝の待ち合わせの時に見た、照れと拗(す)ねが入り混じったような横顔だった。
「あんたってさぁ…。」
そうして何か言いかけた彼はそこで言葉を止め、突如私の手を取った。その手はあまりに当然の様に繋がれ、私達はまるで恋人同士のように地下鉄の階段を下り始める。
「取って喰わないから、安心しろよ。で、俺の事も喰ったりすんな。」
その言葉がつまり、「それでいいから終わりにしたくない」と言っているのだと気付いたのは、その日帰宅した夜、かなめちゃんから私の予定を伺うメッセージが届いてからだった。
そして私はまたもう少し一緒に居てもいいかなと、気になってる映画があるよと彼に返信をした。
かなめ君はろくでもない・完
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