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影を見て光を知る

光あるところ影あり。

本当にそうでしょうか。
大事なものが抜けていますね。
そう、モノ(物)です。
光が物に当たって、物が影を作るのです。

それにしても、光が物に当たると、
なぜ物は影を作るのでしょうか。

そもそも光とは何か、
そこに理由が隠されているのではないでしょうか。

光を、光の素になる小さな小さなつぶつぶ、
小さな粒子の集まったものと考えてみましょう。
その光の素になる粒を「光子」と名付けてみます。
「光子」は「みつこ」さんではありませんよ。
「こうし」と読みます。

バカにするなと怒らないでくださいね。

中学生か高校生だった頃、
理科(あるいは物理か化学)の授業で
「陽子」というものを習いました。

物を小さく小さく分けていくと
原子という小さな粒になって
さらに原子を分けていくと
「陽子」と「中性子」と「電子」という
三つの粒に分かれます。

この「陽子」を「ようこ」と読んだ友だちがいました。
ネタではありません、実話です!
もちろん「陽子」は「ようし」と読みます。

それ以来、陽子という名前の人に会うと、
この話を思い出してしまいます。

ごめんなさい、余談が長くなってしまいました。
話を元に戻します。
(こんなとき「閑話休題」という便利な言葉がありますが、
これも余談です)

光の素になる粒を「光子」だとすると、
光を出す源、たとえば太陽とか蛍光灯とかは
この光子をたくさんたくさん出していることになります。

わたしたちはその光子が目に入ってくることで、
光を感じることができます。

光子は物に当たると、
光子は物を通り抜けられないので、
物は影を作ることになります。

別な言い方をすると、
光子が目に届かなかった部分を
わたしたちは影として感じるわけです。

ところで、
物に当たってしまった光子はどうなったのでしょうか。
光子は物に当たって跳ね返されてしまうのです。
これが「反射」という現象です。

太陽を背にして立ってみると、
目の前の物や風景は見えますが、
これは太陽から出た光子が物に反射して見えているのです。

でも、自分という人間に当たってしまった光子は跳ね返されて
そこに自分という「物」の影ができます。

(ある番組をパクって)
ここまでガッテンして頂けましたでしょうか?

さて、ここで一つ疑問に思うことが出てきます。

そう、誰でも知っているガラスのことです。
ガラスはあきらかに「物」ですよね。

ここでは話を簡単にするため
無色透明なガラスだけを考えてみます。

わたしたちはガラスを通して太陽から出た光を見ることができます。
(注意:太陽を目で見てはいけません!
これも余談ですが、重要な余談です)
つまり太陽から出た光子は目に届いていることになります。

ということは、
ガラスは光子が通り抜けられる特別な「物」なのでしょうか。

そうではありません。

ガラスに当たった光子は、ガラスを作っている物質の素を
力ずくで押してしまい、押されたガラスの素は
隣のガラスの素を押してしまいます。

それが次々に(連鎖的に)起こり
最後は反対側の面にあるガラスの素が
ポンと光子を出してしまうのです。

その光子が目に届くので
ガラスを通して向こうが見えるというわけです。

このように光を光の粒として捉える考え方は
ニュートンの発想が元になっているようです。
あの「万有引力の法則」で有名なニュートンです。

ちなみに、わたしの「宙野牛頓」の「牛頓」は
中国語で「ニュートン」と読み
この「ニュートン」に因んでいます。

前の記事で紹介した寺田寅彦の
ペンネームの一つでもあります。

ところで光は「粒」だとする考え方に対して、
光は「波」だとする考え方もあります。
ホイヘンスという人が最初に唱えたとされています。

それにしても「粒」と「波」では大きな違いです。
いったいどっちが本当なのでしょうか。

多くの科学者(物理学者)たちも頭を悩ませてきました。

そうこうしているうちに、
物理学の世界に革命的な理論が登場しました。

その名も「量子力学」!
名前くらいはお聞きになったことがあるのではないでしょうか。

その量子力学によって
光は「粒」でもあり「波」でもあることがわかりました。

ここでは詳しくは書きませんが
(と言って、自分に書く能力がないことをごまかしているのかも)
量子力学はとても魅力的な学問です。

専門書は数式であふれていますが、
すごく哲学っぽいところもあって、
知れば知るほど、ますますおもしろくなっていき、
量子力学の魅力(というよりは、魔力)に
はまってしまう人は少なくないようです。

ここまで自分の持っている知識を総動員し、
自分なりにイメージして書きました。

ものすごく大雑把な書き方なので、
たぶん細かな点ではツッコミどころ満載でしょうが、
科学的(?)に大きなミスはおかしていないはずです。

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さて、話はガラリと変わりますが、
「光と影」をテーマにした絵画もたくさんあります。

たとえばレンブラントが描いた『夜警』とか。
レンブラントは「光と影の魔術師」と呼ばれたりしています。

レンブラント以外にも「光と影」を描いた画家は数限りなくいます。
美術館に足を運んで絵画を鑑賞したとき、
「光と影」を描いた絵画はなぜか印象に残ります。

わたしは残念ながら絵心がまったくないので
絵やイラストは描けません。
でも、写真は好きなので写真はよく撮ります。

写真を撮るとき、テーマというほどではありませんが
「光と影」を意識して撮ることは多いように思います。

絵画にしても写真にしても、
なぜか「光と影」にひかれてしまうのです。

こじつけのようなは説明ですが、
自分のこころの中の「光と影」を
絵画や写真に「投影」しているのかもしれません。

ふつう「影」という言葉はあまり良いイメージで使われません。
暗いイメージが付いてまわります。

「こころの中の影の部分に光を当てる」などと言われると、
他人に知られたくない自分の秘密を暴かれるような気持ちなったり・・・。

少し話はずれますが、
有名人とか芸能人とかではなくても、
自分の周りでいつもスポットライトが当たっている人がいたりしますよね。

そういう人を羨ましく思ったことはありませんか。

でも、あるときふと気がついたのです。

その人が陽に当たるところばかりに目がいってしまい、
その人にも「影」があることを気づかずにいたのです。

現実にもこころの中のイメージとしても、です。

太陽の前に立てば
その人にも影ができます。
その人のこころの中にも影の部分がきっとあるはずです。
(その人の影を暴いてやろうというのではありません)

わたしも太陽の前に立てば
わたしの影ができます。
わたしのこころの中にも影の部分があることは
わたし自身がよく知っています。

わたしが太陽を背にしてできた影は、
わたしの立ち位置次第で動き、形を変えていきます。
シルエット(影絵)遊びのように。

わたしのこころの中の影も、
わたしのこころの中の「光(太陽)」によって作られた影にちがいありません。

わたしがこころの中の立ち位置を変えれば、
こころの中の影も動き、変わっていくにちがいありません。

その人もわたしも太陽の前に立てば平等に影ができます。
こころの中の影も同じです。

でも、その人の影をわたしは変えることはできません。
わたしの影もわたしにしか変えられません。
(ちょっとだけ付け加えておきますが、
物理的にわたしがその人を動かしたり
その逆の行為などは問題外です)

その人の影はその人特有のものであり、
わたしの影はわたし特有のものなのです。

その人の影とわたしの影を比べても意味はありません。

ただ一つ確かなのは、
その人にもわたしにも光が当たっているからこそ、
その人にもわたしにも影ができるということです。

影があることで光(太陽)の存在を気づくことは
物理だけの話ではないように思うのです。

物の世界でも、こころの世界でも、
影は忘れがちな光(太陽)の存在を思い出してくれます。

今日は書き出したら止まらなくなり、
想定外の長文になってしまいました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

それでは、金曜日にまたお会いしましょう。(予定)

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