潜る
外につぶやかないで、自分の中に蓄積する。
そんな試みを数ヶ月続けてみたわけだけど、これがなかなか心地がよい。
今までの僕はたくさんの記事を書き連ねてきた。
思考の幅を広げるために、自分の考えを深めるために。解像度をあげるために。
それはある一定の効果を得たと思う。
でも、それがある時点で逆回転し始めた。
つぶやけばつぶやくほど、僕の思考の幅は狭まっていく。
そんな感覚を抱くようになった。
きっと「僕」というものを固めるための時期が過ぎて「僕」というものを崩す時期にきたからなんだろうなぁと思い始めている。
でも、僕は僕なりにこれまで積み重ねたものに対するリスペクトがある。
だから、そんな簡単に崩したくはない。
そんな気持ちがある。
「変われ」
「変わってたまるか」
このせめぎ合いがなんとも心地よい。
これは多分、外につぶやき続けていたら感じることはできない感覚だろうなと思う。深く自分に潜る。そして地に足をつける。目の前の人の顔を見る。
その中で見えてくる何かがあると思う。
この1年間。僕は僕なりにたくさんの試みをしてきた。
僕なりに問いかけ、僕なりに考え、僕なりに手立てを打ち、僕なりに次への布石を打ってきた。
その営みの中で感じるのはやっぱり
「子どもたちには力がある」
ということだ。
僕たちがおぶってあげなくても、子どもたちはどんどん歩み始める。
僕はそれを面白がって見ている。
それだけで、毎時間は楽しくなるし、毎日が輝いていく。
太陽が降り注いだ場所にだけ、草花が生い茂るように、
楽しさが降り注いだ場所にだけ、子どもたちの成長が現れる。
今年の僕は「結果」よりも「楽しさ」「笑い」にシフトして子どもたちに接してきた。すると不思議なことに、今までの僕では超えさせられなかった壁を容易に超えてしまう子どもたちが現れる。
でも、何がそれを生み出したのかは、はっきりと言葉にできない。
形にもならないし、説明もできない。
でも、確かに何かが存在する。
言葉にできるうちは、本当にわかっていないのかもしれないな。
伝えれば伝えるほど、その「存在する何か」は陳腐なものになり、
僕を失望させる。今年1年で僕がつかんだものは一体なんなんだろう?
「言葉にしたい」
「言葉にしたくない」
このせめぎ合いもなんとも心地よい。
言葉は所詮言葉でしかないな。
とまぁ…
ここまで言葉にしてみたけど、やっぱり言葉は不自由だ。
潜ろう。
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