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太宰治『待つ』について

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太宰治『待つ』について
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2016年3月の記事一覧

待つ身には、希望が付き纏う。待たせる身には、絶望が付き纏う〜太宰治『待つ』について 第六回

待つ身には、希望が付き纏う。待たせる身には、絶望が付き纏う〜太宰治『待つ』について 第六回

 さて、呑気に将棋を指しているところを、檀一雄氏に怒鳴りつけられた太宰さん。場が落ち着きを取り戻した頃になって呟かれた、あのセリフ。

「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」

 考えようによっては、確かに待たせる身も辛い。待たせているということに対する焦燥感。これは、あの時の太宰さん自身も感じていたことであるに違いない。
 しかも、もしかしたら金を借りることができないかもしれないという不安感

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撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり〜太宰治『待つ』について 第七回

撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり〜太宰治『待つ』について 第七回

 信じてさえいれば、“待つ”という行為には、希望だけが付き纏う。前回までで、“待つ”という行為に対して、そのような解釈をしてきた。では、小説『待つ』における少女の場合はどうであろうか。

私はぼんやりと座っています。誰か、ひとり、笑って私に声を掛ける。おお、こわい。ああ、困る。胸が、どきどきする。考えただけでも、背中に冷水をかけられたように、ぞっとして、息が詰まる。けれどもやっぱり誰かを待っ

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3つのキーワード〜太宰治『待つ』について 第八回

3つのキーワード〜太宰治『待つ』について 第八回

“少女は誰を待っていたのか?”

 はじめ、この命題に対する私の“主観的解釈”を“救い”であるとした。しかし、これでは佐古氏のいう“「人格」との邂逅”が説明できない。寧ろ、その“誰か”との出会いこそが、少女にとっての“救い”であるとした方がしっくりくる。
 前回述べたように、少女は恍惚と不安を感じながらも、“誰か”を待っている。その“誰か”に撰ばれてあることに対して希望を抱いている。
 ここでの不

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生まれて、すみません〜『待つ』について 第九回

生まれて、すみません〜『待つ』について 第九回

 太宰治の罪の意識。それは“生まれて、すみません”(『二十世紀旗手』)という言葉に表わされるような、原罪意識ともいうべき意味合いを含んでいたかもしれない。
 彼は実の母がいるにも関わらず、二歳の時から叔母に育てられ、四歳の頃からは女中の越野タケによって子守として世話される。そういった奇妙な母子関係の中で、次第にある妄想に取りつかれたとしても、それはなんら不思議なことではない。

私は子供の頃、

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